The Project Gutenberg eBook of 續惡魔

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Title: 續惡魔

Author: Jun'ichiro Tanizaki

Release date: October 4, 2011 [eBook #37626]
Most recently updated: February 24, 2021

Language: Japanese

Credits: Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka

*** START OF THE PROJECT GUTENBERG EBOOK 續惡魔 ***

Title: 續惡魔 (Zoku-Akuma)

Author: 谷崎潤一郞 (Junichiro Tanizaki)

Language: Japanese

Character set encoding: UTF-8

Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka.

續惡魔

佐伯さへぎは、あたま工合ぐあひが日に增し惡くなつて行くやうな心地がした。癲癇てんかん、頓死、發狂などに對する恐怖が、始終胸にわだかまつて、其れでも足らずに、いやが上にも我れから心配のたねき散らし、愚にもつかない事にばかり驚きをのゝきつゝせいをつゞけて居た。叔母が或る晚、安政の地震の話をして、もう近いうちに、再び大地震の起る時分だと、仔細らしく、豫言したのをちらりと小耳こみゝに挾んでから、ひどく神經に病み始め、微かな家鳴やなり震動に遇つてさへ、忽ちどきん、どきん、と動悸が轟いて、體中からだぢゆうの血が一擧に腦天へ逆上した。震動が止むと彼は一刻の猶豫もなく、轉げ落ちる樣に梯子段はしごだんを駈け下りて湯殿へ飛び込み、水道の栓をひねつて熱した頭から水をシヤアシヤア注ぎかけながら、卒倒せんばかりに興奮した心氣しんきからくも押し靜める。だんだん恐怖が募つて來るに隨ひ、はたが騷がないでも、自分には何だか地面の搖れて居るやうな氣のする事が度々あつた。そら地震だ! かう思ふと矢も楯も耐らず、ひよろひよろ﹅﹅﹅﹅﹅﹅しながら立ち上がつて、無我夢中に襖を蹴つたり、床柱にぶつかつたり、散々驚かされた揚句の果てが、

「謙さん、お前さん二階で何をして居るんだい。」

かう云つて、下から叔母に怒鳴り付けられる。すると佐伯はワクワク膝頭をふるはせながら梯子段を下りて來て、例の如く冷水を浴び、

「どうも頭痛がして困るんです。」

と、何氣ないていで答へる。其の瞬間の恐ろしさと云つたら、本當の地震の時と少しも變らず、顏は眞紅に充血して、心臓が面白いやうにドキドキ鳴つて居る。

「頭痛がするからツて、あんなにどたばた﹅﹅﹅﹅暴れないでも好いぢやないか。何かお前さん此の頃氣がゝりな事でもあるんぢやないか。」

「いゝえ。」

と云つて、彼は叔母の追求を避けるが如く、こそこそ﹅﹅﹅﹅と、二階へ上がつて了ふ。

本郷は地盤が堅固だと云ふけれど、叔母の家なんか坂道に建つて居るから、いざとなつたら險難けんのんなものだ。此處の二階に住んで居た日には、如何に考へても、大地震の場合に助かりやうがない。割合にシツカリした普請ではあるが、からだの偉大な照子が上がつて來てさへ、ばたりばたり地響きがする程だから、地震の偉大な奴に出會でつこはしたら一と耐りもないだらう。「あれエ」とか何とか、叔母が土藏の鉢卷に押し潰されて悲鳴を擧げて居る間に、親不孝の照子はさツさと逃げ出す。のろまな鈴木は逃げそこなつてはりの下に挾まれるかも知れぬが、なか〳〵其れくらゐの事で死ぬやうな男ではない。どうしても自分一人が叔母と運命を共にしさうである。………さう思ふと、危險極まる二階の座敷が牢獄のやうに感じられる。

 一體地震と云ふものは、ほゞ何年目頃に起るのだらう。其れに就いてオーソリチーのある說明を聞いた上、間違ひのない所を確かめたくなつたので、或る時彼はめツたにはひつたことのない大學の圖書館へ駈け着け、カード、キヤタローグの抽き出しをガチガチと彼方あツち此方こツち引つ張り出した揚句、斯學しがくに關する書籍を山のやうに借り受けて、一日讀み耽つたが遂に要領を得なかつた。何でも大森博士の說に依ると、大地震はいつ何處どこに生ずるか豫め知る事が出來ない。古來東京には數囘の大地震があつたが、將來も必ずあるとは明言されぬ。必ずないとも明言されぬ。甚だ曖昧である。今年は大地震があるだらうなどゝ、みだりに危惧の念に驅らるゝは愚昧な話だと云ふけれど、いつ起るか判らなければ心配するのは當り前だらうぢやないか。

どうも佐伯には、大森博士がうす〳〵大地震の起る時期を知つて居ながら、其れを隱して居るやうな氣がしてならなかつた。博士の事だから、大體の見當は付いて居ても、何日の何時何分と云ふ明瞭な豫測が出來ない爲め、乃至いまだ根據のある科學的說明が出來ない爲め、いたづらに天下の人心を騷がす事を憂へて發表を遠慮して居るのではあるまいか。何となく其れらしい口うら﹅﹅が講義の中にほのめかしてあるやうだ。若しひよ﹅﹅ツとしてさうだとすれば大變である。天下の人心を騷がせても構はないから、學理上の根柢がなくても差し支へないから、つまらぬ遠慮なんかしないで、大凡おほよその所を早く敎へて貰ひたいものだ。………かう云ふ邪推をすればする程、佐伯はます〳〵薄氣味惡くなつて、知識の無い人間の情なさを、今更の如く悲しんだ。さうして、單身博士の私邸を訪問しやうかと迄思ひ煩つた。「こんなくだらない事ばかり苦に病み續けて居て、己はいつ迄世の中に生きて居られるだらう。」―――彼は到底今年の暮れが安隱あんをんに越せないやうな心地がした。每日々々、朝夕あさゆふに五六度も胸をドキ付かせ、渾身こんしんの神經をピクピクをのゝかせて、一つ間違へば氣狂きちがひになりさうなあぶなツかしい輕業かるわざを演じながら、どれだけ命がつて行くだらう。手を換へ品を換へて、執拗に襲ひ來る恐怖の大波を搔い潜りつゝ、盲目めくら滅法めつぽふに悶え廻り、次第に精根が盡き果てゝ行く無慙むざんな姿を、佐伯はみづから顧みてハラハラするやうな折もあつた。呪ふべき運命が、もうつい﹅﹅近所まで迫つて來て、刻一刻に彼を待ち構へて居た。

天長節も過ぎて、十一月の晚秋の空が爽やかに冴え返り、上野の森の木々の梢の黃ばむだ色が、二階の窓から眺められる時分まで、それでも彼はどうにかして生きて居た。相變らず學校は缺席だらけ、いつも座敷の壁の腰張りに頭を擦り附けて、かせを嵌められた罪人のやうに窮屈らしく臥轉びながら、ウヰスキーを飮んだり、煙草を吹かしたり、やツとこさ﹅﹅﹅﹅﹅と落ち着かぬ神經を麻痺させて、石塊いしころのやうな頭を抱へて居る。さうして、時々文藝倶樂部や講釋本の古いのを引き擦り出して、可なり熱心に讀み耽つたが、たま〳〵照子でも二階へ上がつて來ると、惶てゝ其れを蒲團の下へ押し隱した。

「兄さん、今何を讀んでいらしつたの。………そんなに隱したつて、妾ちやあんと知つて居るわ。」

かう云ひながら、照子は或る時二階の窓に腰を掛けて、長い兩脚を臥て居る佐伯の眼の前にはふり出した。さうして、

「ふゝん」

と鼻の先で輕く笑つた。照子がこんな笑ひ方をするのは、母親や鈴木を對手にする時にのみ限られて居たものだが、此の頃は佐伯に向かつてもちよいちよい﹅﹅﹅﹅﹅﹅用ひるやうになつた。

「そんなに見られるのが耻づかしくつて?」

と、兩手を窓の鴨居かもゐに伸ばして、房々とした庇髮のつむりがつくり﹅﹅﹅﹅俯向かせ、足許の犬をからかふやうに佐伯の姿を見下ろして居る。よごれツぽい顏が今日は見事に澄んで透き徹つて、旨味うまみのある軟かい造作が、蠟しんこ﹅﹅﹅のやうな物質を聯想させた。大方體の加減でも惡いのであらう。肉附きの好い鼻や頰ツぺた﹅﹅﹅まで西洋菓子のマシマローのやうに白々しろじろと艶氣を失ひ、唇ばかりが眞紅に嫌らしくうるんで居る。大島の龜甲きつかふがすりの綿入の裾から、十文に近い大足が疊の上へのさばつ﹅﹅﹅﹅て、少し垢の着いた、ち切れんばかりにくるぶしへ喰ひ込んだ白足袋のこはぜが一枚こはれかかつて居るのを見ると、佐伯は餌を投げられた獸のやうな眼つきをして、

「畜生! 又己の頭を引ツ搔き廻しに來やがつた。折角人が面白さうに本を讀んで居るのに餘計なことだ。」

かう腹の中で叫んだ。さうして讀みさしの「高橋お傳」の講釋本を、シツカリしりのしたに敷いて、わざと落ち着き拂ひながら、

「此の本を見せたら、僕よりも君の方が耻づかしいだらう。」

と、胡散臭いことを云つた。

「一體どんな本なの。」

「Obscene picture だよ。」

かう云つて、彼はさも意地が惡るさうににやにや﹅﹅﹅﹅笑つた。

「いゝわ。構はないから、いくらでも出して御覽なさいな。そんな物を耻づかしいとも珍らしいとも思やしませんから。………」

ふと、佐伯は照子の顏が恐しく obscene な表情に變つて居るのに氣が附いた。いつぞや鈴木が、

「實は以前私とも關係があつたんです。」

と云つた言葉を想ひ出して、此の女の面魂つらだましひでは滿更無根の事實でもあるまいと思つた。なか〳〵氣の利いた口をきいて居ながら、一遍でも書生の鈴木に玩具おもちやにされた事があるとすれば甚だ痛快である。

「成る程、今時の女學生はえらい﹅﹅﹅ものだね。君のやうな女が藝者になつたら、さぞ繁昌するだらうよ。」

ポンと投げるやうに云ひ捨てゝ、一と息深く煙草を吸つて、彼はながら自分の胸のへんをうつむいて眺めた。大いに罵つたやうな體裁ていさいであるが、其の實こんな言葉を聞くと、照子はいよ〳〵增長して、得意の鼻をうごめかすのはわかり切つて居る。ほんたうに嘲る積りで云つたのか、乃至ないしはお世辭を云つたのか、我れながら明瞭でなかつた。さうして、俯向うつむいたまゝ、女の視線が痛い程自分の額を射て居るのを感じた。いつのにか、「高橋お傳」は臀の下から背筋の方へすべり込み、肩のあたりでゴロゴロして居るので、佐伯は縛り付けられた人間のやうに身動きが出來ず、嚙みつくやうなまなじりで女を睨んだ。

「兄さんは正直な癖に噓ツつきね。ちよいと鈴木に似て居るわ。」

と、照子は口元に微笑を泛べ、眼球がんきうごろり﹅﹅﹅ころがして、男の頭を凝視ぎようしして居る。其れが佐伯には、丁度鎌倉の大佛を下からのぞいた時のやうな、馬鹿氣ばかげて大きな、威力のある顏に見えて、モウ何も彼も洞察されて了ひさうに、ドギマギしながら、

「ヘーエ、己はそんなに噓ツつきか知らん。」

かう云つて、力一杯うんと氣張つてそらうそぶいた。

「Obscene picture だなんて、誤魔化したつて駄目よ。あたしちやあんと知つて居るわ。」

「知つて居るなら、いゝぢやないか。」

彼は不覺にもかすかな顫へ聲を出して、臆病らしく眼を光らせたが、

「人の目をぬすんで、留守の間に部屋の中を搔き廻して見れば、誰にだツて判るさ。女の利巧と云ふ奴は、みんな其れなんだ。」

と、叩き付けるやうに云つたと思ふと、體中からだぢゆうがわなゝいて、耳の着け根まで眞紅になり、どうしたはずみ﹅﹅﹅か、淚がうかんで來る。

「人の目を窃んで居るのはお互ひ樣だわ。兄さんだつて、こツそり﹅﹅﹅﹅可笑しな本を讀んでいらツしやるぢやありませんか。」

照子は佐伯の泣きツつらを見てから、急に元氣が出たらしく、殊更いたはるやうな優しい調子で、根性の惡い事を云つた。

「實はあたし此の間兄さんの本箱を調べて見たの。參考書なんて物は一つもなくツて、妙な講釋本が五六册はひつて居るきりなのね。どうしてあなた方にんな本が面白いんだか、私には解らないわ。近代人にも似合はないと思ふわ。餘計なお世話かも知れないけれど、兄さんは餘程此の頃どうかしていらツしやるんぢやなくツて? はたから見て居ても、ほんたうに案じられてよ。」

いやに落ち着き拂つて、憎らしい程心配さうな表情を裝つてすらすらと喋舌しやべり出す照子の言葉を、半分まで聞くと、もう佐伯は居たゝまれなくなり、耳の穴へ手を挿し込んで、聽覺を攪亂させたくなつた。照子が語り終ると、漸う雷鳴が濟んだあとのやうに、ホツと一と息ついて、

「講釋本が面白ければ、近代人になれないのかい。全體近代人なんてものが、女にわかるもんぢやないんだ。」

「そんなら、何だツて、そんなに骨を折つて噓をついたり、隱したりなさるの。」

「君はなか〳〵えらいよ。………」

何か辛辣しんらつに毒づいて、一擧に笑殺してやるつもりのところ、こんな平凡な文句より外見付からないで、彼の調子はだんだん哀願的に變つて行く―――

えらい﹅﹅﹅と云つたら、もう好い加減にしたらどうだ。君のやうな女が得手勝手に僕等の中へ割り込んで來て、邪魔をしたり、心配をしたりする權利はないんだ。一體誰が許して、いつ頃から君はそんな權利を持ち始めたんだい。」

佐伯は兩手に頸筋を押さへて、呻吟するやうな言葉遣ひをしながら、

「君に附き合つてると、鈴木でも僕でも、だんだん頭が馬鹿になるんだ。お蔭で僕の神經衰弱は、東京へ來てからズツトひどくなつたよ。近代的であらうが、なからうが、僕はもう講談本以上の込み入つた本なんか、とても讀み續ける根氣がないんだ。」

「そんなに私の事がお氣にさはつて、………」

「何でもいゝから、もうあんまり二階へ來ないやうにして貰はうぢやないか。」

云ひ終ると、彼は齒を喰ひしばつたまゝ眼を閉ぢて、死んだやうに靜かになつた。其の癖例の動悸はひどくたかぶつて、激しい息づかひが相手にもハツキリ聞えた。照子は暫く默つて腰かけて居たが、やがて、

「あたしがわるかつたんなら、堪忍して頂戴な。けれども、あたしには、兄さんの氣持がよくわかつて居てよ。」

こんな捨て臺辭ぜりふを殘して、悠々と下りて行つた。

もう佐伯は、再び臀の下から「高橋お傳」を取り出して見る勇氣がなかつた。妙に卑しく、きたならしく腐れ切つた自分の腦味噌を、殘酷にあかるみへ曝し出されて、散々輕蔑された事を思ふと、立つても居ても堪へ切れない程きまりが惡かつた。

其のきまり惡さを紛らす爲めに、蒲團の中から机の抽き出しへ手を伸ばして、ビユーカナン、ヰスキーのポツケツト入りの罎を捜つて枕に頤を押しつけながら、アルミニユームのコツプで、ちびりちびり飮み始める。俯向うつむきになると、寢勝手の惡いせゐ﹅﹅か、方々の節々ふし〴〵が痛む。………暫く肘を衝いて、上半身を支へて居れば、直ぐと腕が疲れて了ふ。さうかと云つて、兩肩を落せば、胸板がぺつたりと蒲團へくつ﹅﹅附き、喉笛が枕に緊められて、酒を飮むことは愚か、呼吸さへ苦しくなる。背筋を少しでも擡げると下腹がせつなく壓迫され、腰の骨の蝶番てふつがひが窮屈さうにしなつて來る。どうかして、五體を樂に置かうと鹽梅して見るが、力の權衡けんかう上、何處かにおもりを下げたやうな、苦しい點を生ずる。

一滴も殘らず飮み干して、空き罎を投げ出すと同時に、げえつと大きなおくびをしながら、彼は體を裏返しにして仰向きになつた。近來になく、ポウツと快く醉つて居る。「快く」と云ふのは勿論程度問題で、蒲團のよごれて居る事や、手足が發汗してぬらぬらして居る事や、寢間着が脂だらけに垢染みて居る事や、二三日續けざまに照子の Dream に依つて惱まされて居る事や、凡べてさう云ふ忌まはしい所へは、成る可く聯想を及ぼさないやうにして、ホンのうはつらの醉心地を祝福したのである。

三十分ばかりの間、彼はいろ〳〵の奇怪な夢を、見ては覺め見ては覺めして、とうとうしまひに、ぐつすり﹅﹅﹅﹅と眠る事に成功した。それでも時々、靜かな寢顏に不安の影が押し寄せて、眼瞼をピクピクさせたり、睫毛をそよがせたりした。夕方、電燈がついて間もなく、晚飯の知らせにお雪が上がつて來て呼び起したのを、彼は微かに覺えて居る。

「うん、わかつたよ、解つたよ。―――己は今日けふ工合が惡いんだから、飯は喰はないんだ。お粥かい? お粥もいらない。」

すつぽり被つた夜具の中から、モグモグとこんな問答をして、再び眠り續けた。

けれども、それから後はあんまり眠られなかつた。まだ何處か知らに、十分睡氣が殘つて居さうであるのに、物の二三時間も彼方あつち此方こつち寢返りを打つた揚句、遂にパツチリと眼を覺ました。頭の上の硝子窓から、星が幾粒もきれいに輝いて居る。押入れの蔭で鼠らしいものが、コツコツ音をさせて居る。彼は又臀の下から「高橋お傳」を取り出したが、直きに其れを讀んで了つて、今は「佐竹騷動妲妃だつきのおひやく」と云ふのを、本箱の底から引き拔いた。

此れも「高橋お傳」と同じやうな講釋本である。表紙には、妲妃のお百が髮を振り亂し、短刀を口に咬へて、白い脛、紅い蹴出けだしをあらはに、舷から海中へさんぶと飛び込まうとして居る石版畫が刷つてある。藝術として三文の價値もないか知れぬが、此の頃の佐伯は、かう云ふ繪に一番興味を惹かれる。毒々しい程靑い波の色に取り卷かれて、今やまさに水面へ觸れんとする女の足の裏の曲線、妖婦らしい眼の表情、手頸襟頸など、大した不自然もなく描かれて居る。其れを見て居ると、此の本の内容―――さま〴〵の込み入つた、殘酷な話の筋が想像されて、自然と魂をそゝられる。

くわんを開いて、讀むに隨つて、だんだんと面白くなつて來る。

これより小さんのお百がおひ〳〵毒婦の本性を現はし、無殘にも桑名屋德兵衞を十萬坪に於いて殺害しますると云ふくだりは次囘に………

などゝ云ふ調子に釣られ、彼は好奇心を煽られながら、愚鈍なまなざしをして、一氣に讀み續ける。

十萬坪の德兵衞殺しの場は、なか〳〵名文である。

………名にし負ふ其の頃の十萬坪の事でございますから、まことに淋しいもの、あたりはひと一人居りません。折柄ポツーリポツーリと雨さへ降り出して參つた樣子。時分はよしとお百は德兵衞の隙を見すまし、兼て帶の間に隱し持つたる短刀を拔くより早く、男の脇腹へグサとばかりに突き徹しました。「アツ」と云つて、德兵衞が逃げようと致しましたが、重い荷物を背負はされて居りますので、身動きもなりません。「う、う、うぬ、さては己を殺すのだな。」「德兵衞さん、お前の生きて居るうちは、わたしの出世の妨げ故、お氣の毒だが殺してやる。此れと云ふのもみんなお前が馬鹿だからさ。グヅグヅ云はずに早く往生しておしまひよ。」と、襟髮取つて引き廻し、所嫌はず滅多めつた斬り、………プツーリ喉笛を搔き切つて、とゞめを刺し、死骸は河へ投げ込んでしまひました。………

佐伯はふと、自分の喉笛のところへ手をあてゝ、輕く押して見た。恰度古い椅子のスプリングのやうに、皮の下からぽツこり﹅﹅﹅﹅と突起して居るグリグリした骨を、薄い、つめたい、ぴかぴかした刃物でゑぐられた時は、どんなだらう。此の突起物を英語で Adam's apple と云ふのだと、彼は中學時代に敎はつた事がある。敎師の話では、昔アダムが林檎を喰べて、其れが喉へつかへて以來、こんな突起が人間に出來たと云ふ傳說から、斯く稱するのださうである。―――妙な事を記憶して居たものだと思ひながら、彼は猶もページを追つて行く。

それから二三枚の間は息もつかずに惹き入れられて、お百がとうとう佐竹侯のお部屋樣となり濟まし、惡家老の那川ながは采女うねめと密通の結果、お家騷動を起す段取りまで進んだ時、突然二階がみしみしと搖れた。そら地震だ! 暫く忘れて居た恐怖がとむねを衝いて、彼は夢中で蒲團の上に撥ね返つた。

見ると照子が、梯子段を上り切つた處に、いつの間にか突ツ立つて笑つて居る。米琉よねりうの絣の寢間着に、伊達だてまきをぐるぐると卷き着け、なまめかしく襟をはだけさせて、素足のまゝ、電燈の傘の影のくらがりへ、おいらんのやうにだらりとたゝずんで居る。

「もうちつと靜かにあがりしたらいいぢやないか、まるで地震のやうだ。」

欺かれた恨みと驚ろきとを一緖くた﹅﹅にして、彼は突慳貪つつけんどんに浴びせかけたが、何か知ら容易ならぬ事件が、あと胚胎はいたいして居るやうな氣持がした。

「だつて、内證で上がつて來たら、却つて兄さんは都合が惡かなくつて。」

いきなり照子はつかつかと枕許へ擦り寄つて、

「ほら御覽なさい。―――此の本はなあに。」

と、据わる拍子に夜具の片袖を膝の下に敷いて、佐伯を押へ付けるやうにしながら、講釋本を奪ひ取つた。

大盤石だいばんじやくの如き重味おもみにのしかゝられて、彼の頭にウヨウヨと發生して居た女に對する些細な負け惜しみだの、面憎さだの、極り惡さだの、そんなものは一度に滅茶滅茶に踏み躪られ、誘惑の網を藻搔き出たい一心の恐ろしさが、意氣地のない愁訴の聲となつて、女の足許にをのゝき響く。

「照ちやん、君は何故さうなんだらう。もう、後生だから彼方へ行つてくれないか。」

佐伯は兩手を顏へあてゝ、下を向いて云つた。

「君は惡魔だ。………人が折角面白さうに本を讀んで居るところを、邪魔しなくつてもいゝぢやないか。己は此れ以上の强い刺戟に堪へられなくなつたんだから、もう直き死ぬ迄、ソウツとしてはふつて置いて貰ひたい。」

「そんなに興奮なさらなくつてもいゝわ。今夜はおつ母さんも鈴木も留守だから、ゆつくりお話ししようと思つてやつて來たの。―――あたしに二階へ來るなとか、傍へ寄るなとか云つたつて、そりやあ駄目よ。」

照子は兩方の握りこぶしを乳房の上へ重ね、ふところをふつくら﹅﹅﹅﹅ふくらがして、其の中へ頤の先を突つ込んだまゝ、いかにも橫着さうに、

「兄さんは、おなかの中の事を正直に外へ出しちまつたらいゝぢやありませんか、隱したつて隱し終せもしない癖に、隨分をかしいわ。―――ねえ、兄さんにはそんなに鈴木の事が氣になつて?」

かう云ふと、今度は片手を袂から出して、背中をさすつてやりながら、息がかゝる位、頰を擦り寄せた。

「鈴木の事なんぞどう﹅﹅でもいいんだ。―――己は噓を吐いてゞも何でも、一時逃れに安隱に生きて行くよりほか、命が續かないんだ。衰弱した體や神經を疲らすやうな事は、絕對に堪忍かにしてくれ給へ。」

眼を閉ぢて、こんな事を云つて居るうちに、佐伯の鼻先でぱつと女の着物のはだける臭がした。さうして、枕許の疊がもくもく持ち上がるやうな氣持がした。疑ひもなく、照子が彼の眞正面へ來て、どつかと据わり直したらしい。

「解つてよ、解つてよ、―――兄さんは、いくらあたしを馬鹿にしたつて、あたしの方から蔽蓋おツかぶせて出れば、どうする事も出來ないんでせう。」

女は呪文じゆもんを唱へるやうにくどくどと云つて、片手で佐伯の手頸を掴み、片手で顏へあてがつた十本の指をほどき始める。痩せた手頸をらくに一と廻りしたたなごゝろは、柔かく冷え冷えとして、指先などは金屬製の腕輪のやうに、痛い程凍え切つて居る。指をほどいて居る手は、今まで懷にあつたせゐ﹅﹅か、いやににちやにちや﹅﹅﹅﹅﹅﹅脂が湧いて生暖かく粘つて居る。

男の指には、可なり力が入つて居ながら、强ひて抵抗するやうな樣子もなく、針線はりがねたわめるやうにして、一本一本解かれて了つた。

「惡魔! 惡魔!」

と、彼は物狂ほしく連呼したが、やがてぱつちり眼を開くと、女の顏は思つたよりも、もつと間近く、自分の顏の直ぐ前に殺到して居る。彼はあかるみで、人間の面をこんなにまざまざ﹅﹅﹅﹅見たことはない。唯でさへひろびろと餘裕のある顏が、瞳へはひり切れない程擴大されて、白つぽく、壁のやうに塞がつて居る。其の壁のおもては一體に靑ざめて、肌理きめが非常にあらく、一と通りの氣味惡さではないが、不思議に妙な誘惑力を藏して居るらしい。殊に怪物のやうな眼の球が、ぎろり、ぎろり光つて、佐伯の魂を追ひ駈ける。―――動物電氣と云ふのは、大方かう云ふ作用を云ふのだらう。彼は其の場で卽座に氣死きじにするやうな神心の打擊を、辛うじて持ちこたへるより外、逃げる事も、どうする事も出來なかつた。さうして、泣き伏すやうに女の膝へ倒れて云つた。

「照ちやん、君は物好きに己を殺すんだ。己を氣狂ひにさせるんだ。………女と云ふ奴は、みんなかう云ふ風にして、男を片つ端から腐らせるだ。」

それから二三日過ぎた。鈴木が居ても、叔母が居ても、照子は構はず二階へ來て一日遊んで居る。

「照ちやん、ちよいと下へ來て、手を借しておくれでないか。お前此の頃は、しツきり無しに二階へ上がり込んで居るが、謙さんと仲直りをしたのかい。」

叔母が梯子段の下から、こんな事を云ふ。

「えゝ、すつかり仲直りをしたのよ。」

と云つて、照子は眼を細くして、狡猾さうに笑ひながら、ぢツと男を見入る。

「おい、もう大槪にして下へ行つてくれ。己は昨今こんな强い刺戟を受けて、どうして生きて居られるのか、不思議でならないんだ。お前が居ると、不安で堪らないから、トツトと下りてくれ給へ。」

佐伯は破裂しさうな心臟を、後生大事にシツカリ押へて、深い深い谷底へ昏々と沈んで行くやうな眩暈と失神とを感じつゝ、女に訴へる。どうかすると、手足の先が水にひたされて行くやうにしびれかゝつたり、頭の片側が急にうすものをかけたやうにもやもや﹅﹅﹅﹅とする。彼の肉體は屍骸の如く疲れて居ながら、神經ばかりがぴくぴくと銳敏に焦ら立ち、夜も晝も眠られないで、血色はいよいよ惡くなるのであつた。

丁度四日目の晚、叔母が照子を無理やりに引つ張つて、何處ぞへ外出した留守に、梯子段をみしり、………みしり、………と、相變らず陰鬱な音をさせて、鈴木がむつゝり﹅﹅﹅﹅した容貌を二階に運んだ。いつぞや喧嘩をして此のかた、全く佐伯は言葉を交はさなかつたが、以前より一層、人相が險惡になつて居る。銘仙の綿入れにけんどん﹅﹅﹅﹅兵兒帶へこおびを締め、洗ひ晒した紺足袋の上で、白い綿ネルの股引きの紐を、子供のやうに結んで居る。

「いや、どうもお邪魔を致して相濟みません。………」

と、云ふかと思ふと、氣むづかしさうな顏の構造を俄かに建て直して、にたにたと笑つた。まるで寄席よせ藝人げいにんが、百面相をするやうな早變りである。

「………此の頃は、體のお加減は如何です。」

柄にもないお世辭を振り撒いて、鈴木は枕許へ畏まつて、兩手を行儀よく膝頭へ置いた。何にしても、あまり意外な、底知れぬ態度である。事に依つたら、懷に匕首あひくちでも忍ばせてあるかも知れん。

「やつぱり、工合が惡くて困ります。―――失敬ですが、御免を蒙つて、此の儘にさせて置いて頂きます。」

佐伯は橫つ倒しに臥ころび、脇の下まで夜具をかけて、片手を其の外へ出した。「人を馬鹿にして居やがる。」

と思ひながら、成る可く落ち着いて、平靜を裝つて、物を言はうと努めて見る。

「さあ、どうぞお樂にいらしつて下さい。………實は何んです、また照子の事に就いて、お伺ひ致したいと存じまして、………」

「はあ、何ですか。」

と、佐伯の受け答へをしたのが、あまり早すぎたので、鈴木は頓着なく話を進める。

「此の頃照子が、ちよいちよい二階へお邪魔に伺ふやうですが、あれはどう云ふ譯でございませう。」

全然監督者の口吻こうふんである。「一體貴樣は婉曲に云つて居る積りなのか、皮肉を云つて居る積りなのか。」と、怒鳴り付けたいところを、佐伯はヂツと辛抱して居る。

「いつぞや、お願ひした事を、あなたはお忘れになりはしないですか。」

「あなたは僕にどんな事をお賴みなすつたか知れませんが、僕は何も承諾した覺えはありませんよ。―――照ちやんの事は兎に角として、其れだけは明かにして置いて下さい。」

「いや、承諾なさらなかつたと仰つしやるなら、仕方がないです。そんなら、其れは別として、照子の事を今少しお尋ねしませう。………」

かう云つて、鈴木は左の手で一方の袂を捲くつて、右の手の二の腕のあたりを頻りに撫でゝ居る。手頸の眞黑なのに引き換へて、筋肉の頑丈に發逹した、太い血管の蚯蚓みゝずのやうに走つて居るかひなの色の白いのがいかにも不愉快な、不調和な感じを與へる。馬鹿な奴は、手つきから指の恰好まで馬鹿に見えると、佐伯は思つた。

「私には此の二三日、どうも照子のあなたに對する素振が可笑しいと思はれるんです。―――またあなたにしてもさうでせう。何も私から賴まれないと仰つしやつたところで、苟且かりそめにも私と結婚の約束をした女にですな、それに一日たはむれていらつしやると云ふのは、隱當ぢやございますまい。―――一體あなたはどう云ふお考へなんでせうか。此れに就いて要領を得た御返事を願ひたいんです。」

「はゝあ。」

と云つて、佐伯は敷島を一服吸つて、鼻の穴から立ち昇る煙の痕を眺めた。極めて取り濟ました挨拶振りであるが、此れは相手を輕蔑する爲めよりも、寧ろ相手の恐るゝに足らざる事を、自分の神經に納得させる爲めに云つたのである。煙草を一寸ばかり吹かすと、直ぐに吸ひ殻を煙草盆の中へ投げ込んで、今度は硝子窓の方を向いた。………空が眞黑で、星が一つも見えない。………神經は十分納得が出來ないかして、未だイライラと騷いで居る。恰も胸の中に、無數の一寸法師が、うじの如くに湧いていくさをして居るやうである。

鈴木は始終の樣子をヂロヂロと眺め、佐伯の手の働く所、首の赴く所を、瞳で追ひ駈けて居たが、遂に返答がないので、暫くもぢもぢ躊躇ためらつた後、再び口邊に薄笑ひを洩らしつゝ喋舌り出す。此の男はどんなに感情の沸騰した場合でも、話をする前に先ず薄笑ひをするのが常癖じやうへきとなつたらしい。

「さう云ふやうに默つていらしつても、御返事がない間は、一と晚でもかうやつて居りますから、斷乎とした、男らしい御返事をなすつた方がいゝでせう。それに、あなたの其の御樣子を見ても、もう大槪は私にわかつて居ります。人間と云ふ者は、みんな不思議に正直なもんですからな。」

いくら平靜を裝はうとしたつて、鈴木に口を利かせて置けば置く程、おこらずには居られない。の口先でチクチク突ツつかれると、どんな頑丈な堪忍袋の緖でも、殆んど先天的の不可抗力を以て、叩き破られて了ふ。いはんや佐伯に於いてをやだ。馬鹿と神經衰弱の應對だから、第三者が見物したら餘程面白い光景だらうと思ひながらも、佐伯はムカムカと腹が立つ。

「僕の考へと云へと云つたつて、考へなんかないんだから、御返事する必要はありませんよ。君の方で大槪解つたのなら、それでいゝぢやありませんか。」

窓外の桐の葉に、パラパラと音がして雨が降り出した。早く照子が歸つて來ればいゝが、………

「フン、何かとおもつたら、さう云ふ事を仰つしやる。―――あなたが、さう云ふ卑屈な態度をお取りになるのは、結局御損ですよ。」急に此處ここから殺氣を含んだ調子に變つて、「決して私は此の儘に濟ませやしないのです。私には十分な覺悟があつて、已むを得なければ最後の手段を取る決心ですから、言を左右に托して逃れようとなさると、却つてアテが外れます。」

とうとう來たな、と、佐伯は腹の底で呟いた。斯う威嚇おどかされて見ると、成る程凄いものだ。現にたつた今、「最後の手段」と云はれた瞬間に、心臓がヒヤリとして、口から半分出かゝつて居た負け惜しみの文句が、忽ち引き込んで了つた事は確かである。其れで居て、いつものやうな切迫した、あはや卒倒しさうな恐怖が襲撃して來ないのは、どう云ふ譯だらう。彼は反對に其の物凄さを、適當な刺戟を持つ興奮劑として、味はふやうな氣分になつて居る。

「君の方に決心があるなら、何とでもいゝやうにし給へ。―――もと〳〵僕は、君からそんな故障を申し込まれる理由はないんだ。照ちやんが自分で勝手に二階へやつて來て、遊んでるんだから僕の知つた事ぢやありませんよ。故障を云ふなら照ちやんに云ひ給へ。」

「いや、女なぞに理窟を云つたつて解るもんぢやないです。それよりか、あなたが照子に代つて辯解なさるだけの責任がおありでせう。………ないと云ふ筈はございますまい。」

「僕に責任が?」

「はゝ」

と、鈴木はさも憎體にくていに鼻先であしらつた。

「どうせ、そんな事を仰つしやるでせうと思つて居ました。しかし私は昨日、照子の祕密にして居る日記を見て了つたのです。あなたは旣に姦通をしていらつしやるぢやありませんか。」

かう云つて、せゝら笑つて居る。笑ふ拍子に厚い唇の奧で、亂杭齒らんぐひば刃物はもののやうにピカリと光つた。

「おい君、ちつと氣を附けて物を云ひ給へ。………」

何とか後を誤魔化さうとしたが、モウ到底隱し切れないやうになつたので、

「姦通と云ふのはをかしいぢやないか。よしんば僕と照ちやんと關係があつたとしたところで、姦通よばゝりをする法はないだらう。」

「關係があつたところで、ですか、………さう曖昧に仰つしやらずと、實際關係があつたと仰つしやつたら如何です。」

「そりや、關係はあつたさ。」

今迄の言動とは甚だしく矛盾した事を、彼は苦もなく是認して、冷然と云ひ放つた。言下に鈴木の懷から匕首あひくちが閃くのかと思つたら、そんな形勢はない。それでも佐伯は、もう半分ばかり命がなくなつたやうな心地になつて居る。

「そら御覽なさい。」

鈴木は、討論會で相手をへこませた時のやうに、得々然とく〳〵ぜんとして、

「關係がある以上は、姦通でございませう。―――いつぞやお話しました通り、私と照子とは許嫁いひなづけになつて居るんですから。」

「君は其の積りかも知れないが、照子ちやんの方ぢや、約束をした覺えがないと云つてるぜ。自分で獨り極めにして、姦通呼ばゝりするなんて非常識極まる。―――きみはそんな理窟が、世間に通ると思つてるのか。」

「照子が何と云つたつて、彼奴の云ふ事なんぞ、信用は出來ませんよ。―――照子の父がちやあん﹅﹅﹅﹅と、其のやうに約束したんです。親の意志に從つて、娘に結婚を强ひるのが非常識ですか知らん。」

「だからさ、だからさ、そんな苦情は僕の知つた事ぢやないんだから、照子の方へ持つて行つたらどうだ。照子で解らなければ母親も居るぜ。」

かう罵つて居るうちに癇癪玉が破裂して、佐伯の顏は見る見る眞赤に充血した。もうかうなつたら、何でも彼でも怒鳴り續ける積りで、口の中に劍突けんつくの彈丸を頰張りながら、相手の一言一句を待ち構へて狙つてゐる。

「いや、今日になつて母親の意見を聞く必要もないです。母親や照子がたとへ何と云つたところで、一度約束した以上は、私は其れを認めて居るんです。許嫁と云ふ事は立派な旣成の事實なんですから、私は唯、あなたの姦通の罪を責めればいゝのです。―――此の事件に就いて、あなたはどう云ふ處置をお取り下さるか。………」

「君、面倒だから、いつそ二人で決鬪しようか。ねえ、それが一番きまりが着いていゝ。」

突然、佐伯はこんな事を云つた。さうして、さもさも勇氣凜々りん〳〵たる調子で、キツと相手を睨み付けたが、いつの間にか極度の憤激と恐怖とが、氣狂ひじみた瞳の中に漲り渡つて居た。

「ま、さう仰つしやらずとも、隱かに解決する方法がございませう。………」

意外にも、鈴木は少し面喰らつて、殊更柔和な顏を拵へながら、

「お互ひに高等敎育を受けた人間ですから、そんな野蠻な行爲はしたくないです。私はあなたが謝罪の誠意さへ示して下されば、それで滿足しちまふんですよ。なあにあなた、決鬪だの何だのとそんな馬鹿らしい眞似をするには及ぶもんですか。」

「僕は君に對して、何の罪も犯して居ないんだから、謝罪なんか出來ないぜ。―――決鬪しようよ君、其れが一番いゝつてば。」

「ふん、まださう云ふ事を仰つしやる。―――立派に姦通をしていらつしやりながら、謝罪が出來ないと云ふのは可笑しいですな。」

「君は馬鹿だな、よつぽどひどい馬鹿だな。かりに照子が許嫁だつたつて、現在同棲して居ないものを、何處が姦通なんだ。」

佐伯は咆えるやうにガミガミと此れだけ喋舌しやべつたが、中途で舌がつまづいて、とてもすらすら口がかれない。手足が顫へつく程腹が立つて、痩せた體へはひり切れないくらゐいかりが充滿した。あまり激しく罵つたせゐ﹅﹅か、呼吸がせはしなくはずんで、唇が瀕死ひんしの病人の如く靑褪めて居る。肩から頸のまはりの動脈をづきんづきんと響かせて、多量の血が頭へ上がつて行く。此の二三日、照子に接近して以來、神經が夥しく衰弱して、チヨイとした刺戟に遇つてさへピクピク反撥するのに、此の上感情を煽られたら、彼は一擧に憤死して了ひさうだ。

「はゝ、女の事では誰でも馬鹿になりますよ。―――私なども、隨分照子には馬鹿にされましたからな………」

かう云つた時、鈴木の愚鈍な容貌は一層暗くなつて、淋しい笑ひと一緖に、悲しげな表情が泛んだ。

「しかし、あまり馬鹿にし過ぎると、私も默つて居ないです。―――そりや成る程、法律上から云へば、姦通ではないでせう。けれども、あなたに良心がおありになるなら、そんな理窟は仰つしやれない筈ですがな。―――ま、明日まで御返事をお待ち申しても宜しうございますから、今夜ゆつくりとお考へなすつて下さい。私の方が正しいか、あなたの方が正しいか、落ち着いてお考へになつたら、そりやキツトお解りになるでせう。………」

出來るだけ相手の話が聞えないやうに、佐伯は心を餘所へ外らして、一生懸命興奮を押し鎭める事に努めた。其の恰好は、丁度五段目の勘平が切腹して今にも落ち入らうとする斷末魔だんまつまに、片手を急所の傷口にあてながら、息をせいせい﹅﹅﹅﹅云はせる姿によく似て居た。

「兎に角、御參考までに申し上げて置きますが、つまり私は此れだけの處置を付けて頂きたいんです。―――先づ第一に姦通の事實を認めて、謝罪狀を書いて頂く事。それからですな、謝罪の條件として、將來斷然照子と手をお切り下さること。………」

と、鈴木は、爪の先が悉く短く喰ひ切られた右の手の指を折り數へて、

「手をお切り下さる證據に、此處の家を立ち退いて頂く事、………尤も此れは何ですよ、下宿をお尋ねなさる御都合もございませうから、五日以内に實行して下されば宜しいのですよ。あなたが照子に野心を持つておいでにならなければ、以上の條件を承諾なさるのは、そんなにむづかしい事ではございますまい。どうか一つ、明日あすのうちに御挨拶が願ひたいのです。私の方もいろいろ都合がございまして、………」

云ふだけの事を云つたら、好い加減にして引き退つたらよささうだが、殆んど際限なくブツブツと口を動かす。相手がどんなそつけ﹅﹅﹅ない素振を見せようと、耳があつたら聞えるだらうと云はんばかり、石に向つて念佛を唱へるやうな態度に出て居る。―――

「………お互ひにつまらぬ女の事なぞで、爭論したかないですよ。此れを御緣に御交際を願つて、又何かの時には私のやうな者でも、及ばずながらお力添へにならない事もないでせう。此れが男と女ぢや仕方がありませんけれど、男同士の喧嘩なんですから、濟んで了へば却つてサツパリして好い心持ちです。はゝ。」

佐伯は頭から蒲團をかぶつて、寢た振りをして了つたが、いつまで立つても愚劣な獨語ひとりごとが止みさうもない。折々ぽつりぽつりと途切れるから、今度は下へ行くかと思ふと、又續きが始まる。そのうちに、佐伯はふと、或る身の毛のよだつやうな物凄い事を考へ出した。鈴木がかうやつて、大人しく喋舌つて居るのは、其の實ち切れさうな癇癪をこらへつゝ、此方こつちの樣子を窺つて居るのかも知れない。此方の仕業しわざがあまり冷淡なのに、いつ何時なんどき癇癪玉を破裂させて、

「やい、もう堪忍ならねえぞ!」

と、云ふより早く懷の匕首を拔き放ち、夜具の上からズバリとやられるかも知れない。伊勢音頭のみつぎが萬野を殺すやうに散々無禮をさせ、增長をさせた揚句、いきなり不意討ちを喰はせないとも限らぬ。

さうだとすれば、蒲團を被つて知らん顏をして居るのは、危險千萬である。敵の動作がまるきり見えないから、いざと云ふ場合に逃げる事は愚か、聲一つ立てる譯に行かない。それでも、何か知ら敵の喋舌つて居る間は安心だが、言葉の途切れた時が、氣懸きがゝりである。其の隙にそつと﹅﹅﹅短刀の鞘を拂ふとか、蒲團の方へにじり﹅﹅﹅寄るとか、いかなる用意をして居ないとも限らない。………

ちりん、と階下の格子を開ける音がして、叔母と照子が歸つて來た。

「おゝ寒かつた、おツ母さんあたし風を引いちやつたわ。―――さつきの駱駝の襟卷を買つてくれないからよ。」

などゝ云ふ照子の無遠慮な聲が二階へ響くと、佐伯のみぞおち﹅﹅﹅﹅の邊にこびり着いて居た不安のかたまりは、だんだん弛んで、溶けて了つた。同時に鈴木は、

「や、どうもお邪魔致しました。」

と、やをら身を起したが、

「また彼奴等に知れると面倒ですから、萬事あなたのお考へから出たやうにして、先程申し上げた通りの御處置を願ひたいんです。―――明日一杯お待ち申しますから、照子などに御相談なさらんで、祕密に御囘答をなすつて頂きたい。」

こんな事を云つて成る可くあわてたざまを見せないやうに、悠々と引き拂つて行つた。すると、

「照ちやん、まあ着物だけでも着換へてからにおしなね。」

かう云ふ叔母の言葉が遠くに聞えて、

「いゝえ、ちよいといま直ぐ下りるわ。」

と云ひながら、照子が入れ違ひに梯子段を上がつて來た。さうして、男の傍へどたん﹅﹅﹅と据わつて、

「鈴木が何しにやつて來たの。」

と、消えかゝつた火鉢の炭をいぢり始めた。

何でも、大分夜が更けたのだらう。電燈のあかりが一時ぼんやり暗くなつて、再びパツと明るく照つた。ばらばらばらと桐の葉に、思ひ出したやうな雨の雫があたるけれど、格別の降りではないらしい。

「ねえ兄さん。………何しに來たの。」

かう催促されたが、佐伯はやつぱり蒲團の中へ首を埋めて、微塵みぢんも動かないで居る。長く伸びた、よもぎのやうな髮の毛ばかりが、夜具のふちから少し出て居る。

「お前、何處へ行つてたんだ。」

暫く立つと、彼は寢言のやうな調子で云つて、たつた今眼が覺めたやうに、眼瞼をぱちぱちやらせながら、途方もない橫ツちよ﹅﹅﹅の方から顏を露はした。

「何處へ行つたつて、そんな事は構はないわ。―――それよりか、鈴木が何で此處へ來たのよ。あたしに云ふなツて威嚇おどかされたんでせう。」

「馬鹿を云へ。」

佐伯は出來るだけ瞳を額の方へ吊り上げ、殆んど窪んだ眼球が眉毛へ着くくらゐにして、仰向きに女の膝頭から腹、胸、襟のあたりをつく〴〵と眺めた。凡そ此の女の血色程、每日のやうに變化するものはあるまい。今日はおもての寒氣に觸れたせゐか頰ツぺた﹅﹅﹅と鼻の先に赤味を帶び、肌が瀨戶物の如く冷めたさうにピカピカ光つて、顏の感じが全く異つて居る。

「照ちやん、お前鈴木と何か關係した事があるのかい。」

いつか一度は尋ねよう尋ねようと企らんで居た質問を、彼は此の機會に乘じて提出した。

「つまらない事をくのね。あるかないか、考へて見たら解るでせう。」

怫然ふつぜんとして色をす模樣もなく、平氣でこんな答へをするだけ、女の云ふ事が噓だか本當だか、ちよいと佐伯には判らなかつた。尤も照子はどんな場合にも、高聲で笑つたり喚いたりしない人間である。多分感情の動搖を有りのまゝに發表する事が、女の威嚴を損ずるとでも思つて居るのだらう。

「だつて鈴木は、立派に關係があると云つたぜ。」

「誰があんな奴と………」

「あんな奴でも、昔は秀才だつたさうだから、何ともわからないな。」

「解らなければ解らなくつてもいゝわ。そんなに辯解したかなくつてよ。―――若し關係があつたとしたら、それがどうなの。」

「己逹のした事は姦通だの何だのツて、あんまり彼奴の鼻息がえらいからさ。」

「それぢや兄さんは、すつかり鈴木に白狀しちやつたの。」

「うん、お前の日記を内證で見たんださうだ。もう隱したつて仕樣がないよ。」

佐伯は「どうでもなれ」と云ふ心になつて、投げ出すやうな物慵ものうい言葉遣ひをした。

「そりや鈴木が鎌を掛けたんだわ。あたし内證にも何にも日記なんか書きはしませんもの。―――兄さんは欺されたのよ。」

「馬鹿の癖に、いやに小刀細工をする奴だな。………」

かう嘲つては見たものゝ、ウマウマ一杯喰はされたかと思ふと、彼はいよ〳〵鈴木が憎らしくつて、業が煮えて堪らない。………いまいましさに腹の蟲がムヅムヅして、あたりの物を、手あたり次第に打ツつけてやりたくなつた。

「………知れたら知れたで構はないぢやないか。どうせ判るにきまつて居るんだ。」

「兄さんも隨分人が好いのね。自然と知れたのなら好いけれど鎌を掛けられて白狀するなんて、まるでお話しにならないわ。だまされたり威嚇おどかされたりして、いい加減馬鹿にされたんぢやあなくつて。―――ほんたうに仕樣がないわね。」

かう云つて、照子は襟にかけたヹールを外して、ふわツと男の夜具の上へ放り出すと、今度は大儀らしく橫倒しに寢ころび、佐伯の頭の方へ自分の顏を持つて行つて頰杖をついた。長い體が恰も蒲團と丁字形に、男の枕許を弓なりに包圍して丘の如く蔽うて居る。戶外より少しは暖かい室内の空氣にぬくめられて、血色はいつの間にか眞つ白に生き生きとして來た。

「鎌を掛けても掛けないでも、あんな奴には、どんどん本當の事を云つちまふ方がいゝんだ。なまじつか﹅﹅﹅﹅﹅細工をするだけ、此方の、沽券こけんが下がるやうな氣がする。」

佐伯は兩手を頭の下に敷いて、天井を睨みながら、さも齒牙しがにかけるに足らんと云ふやうに空嘯いたが、やつぱりいまいましさが胸の何處かに殘つて居て、どうも溜飮りういんが下がらなかつた。

「それで鈴木は、姦通したからどうしろツて?」

「己に謝罪狀を書いて、此の家を出てくれツて云ふから、頭からドヤしつけて追つ拂つたんだ。―――あの馬鹿野郞!」

鈴木に威嚇おどかされたのでない事を女に頷かせる爲め、殊更强さうな文句を並べて見る。

「若しかすると、兄さんは鈴木に殺されてよ。………」

半分は冷やかすやうに、半分は心配するやうに云つて、照子は唇にむづ痒さうな笑を泛べたが、それは仰向いて居る男の眼へは入らなかつた。

「殺すなら、殺すがいゝ、彼奴は始めツから己を目の敵にして狙つてるんだから、關係しようと、しなからうと、どうせかうなるにきまつてゐるんだ。」

「ふゝ、大丈夫よ。」

橫倒しのまゝ、腰の骨を使つて、疊の上を游ぎながら、女は自分の顏が男の内ぶところへ入るくらゐ擦り寄つた。二人の體は丁度ふたどもゑのやうに首を中心として、右と左に弧を畫いて居る。

「恐がらなくつてもいゝぢやありませんか。彼奴は人を殺せるやうな、そんなテキパキした人間ぢやないんですもの。あたしなんか、散々馬鹿にし拔いてやるけれど、怒つた顏一つしやしないわ。ほんとに大丈夫よ。さつきのは冗談に威嚇かして見たの、ほんとに安心よ。だから此れからいくらだつて………」

話の間に佐伯はぐるりと首を相手の方へ曲げてめんと向かつた。男の前に頰杖を突張つツぱつて居る照子の顏は、柔かい大福餅を押しつけたやうに、皺が寄つたりたるん﹅﹅﹅だりして、分厚ぶあつな唇や、眼瞼や、鼻柱や、頤の肉や、方々の皮膚がいろ〳〵に弄ばれ、殘酷な歪みなりの嬌態を呈して、媚びるが如く躍つて居る。肉が何かの歡喜に充たされて、踊りををどつて居るやうである。

「殺されない、殺されないと思つて居ると大違ひだ。己逹は殺されるより外、別に方法がないやうにばかりし向けてるぢやないか。彼奴はお前を殺さなくつても、己を殺すにきまつて居る。―――こはい恐くないは別として、己は唯豫言をして置くんだ。」

「そんな豫言は神經衰弱の結果だわ。」

「神經が衰弱すると、却つて或る方面には銳敏に働くから、普通の人間の判らない事まで感じるんだよ。」

「鈴木に殺されるくらゐなら、あたしに殺された方がよかなくつて?」

かう云つて女は、頰にあてがつた肘を外して、十本の左右の指を組み合はせて、てのひらを外側にして兩手を棒のやうにグツと男の方に伸ばした。丁度二つの掌の、網代あじろに組み合はされた部分が、さながら蟹の腹のやうに思はれた。

あくる日の朝、鈴木はいつものやうに庭を掃除すると、包みをかゝへて、神田の私立大學へ出かけて行つたが、夕方になつても歸つて來なかつた。三時半に電燈がついて、四時半ごろからそろ〳〵暗くなつて、追ひ追ひ風呂を沸かす刻限の近づくに隨ひ、佐伯と照子は何となく其れが氣がゝりになり出した。

「鈴木はどうしたんだらうね。大變歸りが遲いやうぢやないか。」

晚飯が出來上がりかけた時、とうとう叔母がこんな不審を打ち始めた。しかし、飯が濟んで臺所が片附いて了つても、鈴木はなかなか戾つて來ない。

「ほんたうにどうしたんだらう。をかしいぢやないか。―――雪や、お前御苦勞だが、鈴木が居ないから、湯殿を焚きつけておくれ。」

叔母の不審は夜の更けると共に次第に强くなつて、口叱言がだんだん激しくなる。

「ま、もう八時だよ。冗談ぢやないどうしたつてんだらう。」―――最初は叱言のやうに口を尖らして、ブツブツやかましく呟いて居たのが、やがて泣き出すやうな、恐怖に襲はれたやうな調子と變じ、

「雪や、鈴木は今朝何時ごろに出て行つたのだい。」

風呂から上がつて來て、柱時計を眺めながら、かう尋ねた時の叔母の顏つき﹅﹅と云つたら、まるでべそ﹅﹅をかいて居た。

「左樣でございますね。たしか七時半ごろでございましたらうよ。せんの時分は、いつでもおかみさんの御寢間の廊下へ手をついて、『行つて參ります。』つて聲をかけたのに、此の頃は掃除をすますと、默つて出て行くんでございますよ。そりや、をかしいやうにムツツリして居りますの。」

お雪は人の心配なんぞ少しも氣に留めないで、至極無邪氣に、こんな事を訴へる。

「今朝は別段、いつもと變つたやうな樣子はなかつたかい。」

「さあ、………尤も此の二三日は大分不機嫌で、あたしと喧嘩ばかりして居りましたつけ。」

内々ない〳〵で荷物でも運んで居るらしい風は、見えなかつたか知ら。」

「いゝえ、そんな樣子は………」

皆まで云はせず、叔母はもどかしさうにつかつか﹅﹅﹅﹅と玄關橫の書生部屋へ駈け込み、戶棚から押し入れから、本箱の蓋までけツぴろげて、血走つた瞳を据ゑつけて一々中を檢べて見たが、

「をかしいねえ、………着物もそつくり﹅﹅﹅﹅して居るし………」

と、云つたまゝ、呆然と彳んで了つた。

「さう云へば此處に、法律の本らしいものが、五六册立てゝございましたのに、其れが見えないやうでございますよ。」

アツケに取られたお雪は、叔母のうしろから附いて來て、暫くぽかん﹅﹅﹅とした後、やうやう氣が付いたのか、かう云つて剝げかゝつた一閑張いつかんばりの机の上を指差した。

此の騷動の最中、照子は二階へ上つたきり姿を見せなかつた。實は叔母も、とうから照子に相談して、憂ひを共にしたかつたのだが、鈴木の事を云ふと、「あんな奴に何が出來るもんですか。」とか、「恐がればいゝ氣になつて增長するばかりです。」とか、てんで﹅﹅﹅馬鹿にし切つて相手にならないので、遠慮して居るのであつた。けれどもかうなると、叔母も到底一了見で疊んで置く譯に行かないから、冷やかされると知りつゝ、

「照ちやん、照ちやん。」

と、今にも大變事が起りさうな惶てかたをして、けたたましく梯子段を駈け上つた。

「お前、鈴木がいまだに歸つて來ないんだよ。」

「そんなら屹度、内を逃げ出したんでせう。」

男の枕許の火鉢にあたりながら、照子は雜作もなく斷言して、母の方を振り向いても見ない。

「さうかねえ。………また例の癖が始まつたんぢやないか知らん。お前何か、鈴木を怒らせるやうな事でもしたのかい。」

女房が亭主に寄り添ふ如く、母は娘の傍へべつたり据わつて、救ひを求むるやうに膝をつけた。するとお雪が、

「おかみさん、おかみさん………」

と、階下から喉笛のどぶえの吹き裂けさうな、甲走かんばしつた聲をあげて、

「硯箱の中に、何だか置き手紙が入れてございますよ。」

「さうかい。ちよいと二階へ持つて來ておくれ。」

續いて、再びばた〳〵と梯子段を駈け昇る音がして、お雪が爆裂彈でも運ぶやうに、氣味わる〳〵赤い封筒の書面を持つて來る。

「いゝから、お前は下へ行つておいで。」

受け取ると等しく、叔母は、狀袋の頭を引きちぎりながら、お雪を追ひ返して、勸進帳を讀むやうに、手紙を兩手で胸のあたりに支へ持つた。

ことわつて置くが、狀袋の表には、「御主人樣」とでもあるべき處を、わざわざ「林久子殿」と叔母の本名を麗々れい〳〵しく楷書でしたゝめてある。本文の方は半紙二枚へ、大小不揃ひの拙劣な文字が、穗の擦り切れた筆で、而も墨黑々くろ〴〵と走り書きしてある。

讀んで行くうちに、叔母の眼つきは胡散らしく光つて、自然と眉を顰め唇を結び憎らしさうな恐ろしさうな、いろいろな表情を湛へたが、最後まで讀み終ると、全く顏が土氣色つちけいろになつて、

「まあ、お前さん逹此れを見て御覽。」

と、二人の前へ投げ出した。人相見にんさうみの所謂「死相」とは、蓋し此の時の叔母の容貌などを云ふのだらう。まるで魂飛こんと神失しつしんして、ろくろく舌の根も動かせないらしい。

果して、どんな凄い文句が列べてあるのか知らん。―――佐伯は眩暈をこらへつゝ深い谷底を瞰下みおろすやうに、蒲團から乘り出して、手紙の方へ上體を匍匐ほふくさせた。

もう讀まない先から例の動悸が、心臓を破れんばかりに叩いて居る。照子は火鉢の緣へ頤を載せて、對角線の方面から、斜めに覗き込んで居る。

予は今夜を限りとして、二度と再び此の家に戾らぬ決心ナリ、最早や此の家の飯を喰ふも家族の顔を見るも不愉快となりたり、其の理由原因ハ、各自の胸にきいて見ればたゞちに了解する筈なれど、就中なかんづく照子と佐伯とは、必ず思ひあたる節アラン。しかし、今一應此處に宣言すべければ、よく熟慮反省してあやまちを改めよ。然らば或は、予も其の罪を赦してやる可し。

予ハ第一に照子の母たる久子の罪を鳴らさゞる可からず。汝は夫敏造氏の死後果してよく未亡人たるの勤めを完うセシヤ。敏造氏生前の遺訓にそむき、夫が唯一の忘れ紀念がたみなる娘の敎育法を誤解して、照子をして今日の如く墮落せしめたるは汝の罪にあらずして何ぞや。敏造氏の生前に比べて林家の家風の頽廢せる事殆んど言語に絕エタリ、予の如きは之を憂へて幾度か忠吿したるも、汝は更に耳を傾けず、却つて予をうるさがり、甚しきは予を嘲笑してがうも反省する所アラズ。實に家名を傾くるものと云ふべし。

殊に敏造氏が娘照子を予にめあハセンとの遺志ありし事は明白なるに不拘かゝはらず、今に至つて言を左右に託し、其の婚約を破棄せんとするのみか、嘗て婚約したりし事さへも頻りに打ち消さんとするは、亡夫を欺き予を欺くの罪極めて大なり。地下の敏造氏若し靈あらば、必ズヤ泣かん。

アヽ予は汝等母子の爲めに實に半生を誤られたり矣。サレド記憶せよ、予ハ汝等に對して復讐せずんばマズ。予が敏造氏ヨリ受ケタル恩惠ヤ甚大なりと雖も汝等は予の敵ナルと同時に敏造氏の敵なるを以て、毫も假借かしやくスル理由ナシ。而も、事こゝに至る迄、予ハ幾囘カ敏造氏の知遇を思ひ、汝等の墮落を憐みて、忍び得るだけは忍びたるなるをや。

終りニ臨みて、尙佐伯に一言せん。もはや此の場合となりては最後の手段を下すに一刻の猶豫もなり難けれど、汝にして直ちに悔い改め、予が昨夜提出シタル條件を卽時實行して、林の家を立ちのかば、或は許容の道ナキニ非ズ、予ハたとへ家にあらずとも、汝等の行動ハ常に怠リナク監視しつゝあり。若し飽く迄も予に反抗するならば、それだけの用心が肝要なり。少くとも闇夜に外出する時は注意すべし。

これで手紙は終つて居る。脅迫狀を投げ込まれたら、嘸かし恐ろしいだらうと想像して居たのが、實際にぶつかると案外恐ろしいものではない。多少薄氣味惡いだけの話である。

「はゝ、とうとう奴さん癇癪玉を破裂させましたね。」

かう云つて、佐伯は叔母の方を向いた。ところが、手紙よりも叔母の顏を見て居ると、却つて恐ろしさが感じさせられる。

「何を云つたつて、ウツチヤラかして置けば、又直き戾つて來るわ。」

照子はスツカリ手紙を讀んだ癖に、ろくろく眼を通さないやうな風をして云つた。

「ほんとに戾つて來るか知ら、あたしや今度はどうかと思ふよ………」

叔母は胴ぶるひをしながら、及び腰になつて火鉢へ掴まり、再び疊の上の書面を視詰めて居る。

「………内に居れば居るで、始終ブツブツ云つてるし、逃げ出せば逃げ出すで心配だし、あたしや彼奴にはもうもう困り切つちまふよ。それでもまあ内に居る間は斬るの突くのツて心配がないからいゝが、外へ出た日にや、何をたくらんでるか判りやしないもの、ヒヨツトしたら今夜あたりだつて、内の廻りをうろついて居るかも知れない。」

三人は暫く默つて、聞くともなしに戶外の物音に耳を澄ました。晝間でもあまり人通りの繁からぬ往來の夜は眞つ暗で、板塀にぴツたり體を着けて居たら、二三尺離れるとなかなか見付かりさうもない。其の外路次の芥溜ごみための蔭でも、裏の庭木戶の片隅でも、身を隱すには究竟くつきやうの場所柄である。………

すると、ぱた、ぱた、と遠くの方から、人の忍び寄るやうな跫音が、三人の耳へ響き始めた。草履ざうり穿きか乃至は跣足はだしで極めて靜かに步くものがあるらしい。ぱた、ぱた、ぱた、と、音は一定の間隔を置いてかすかながらも、次第次第に内の前へ近づいて來る。やがて其の物音は、ハツキリと確實に聞き取れるやうになつて、ゴム底の足袋を穿いた車夫が、メリケンの俥を挽いて走つて居るのだと判ると同時に、家の前をどんどん素通りして行つて了つた。

「何かい、………近頃になつてお前さん逹は、鈴木に腹でも立たせるやうな事をしたのかい。」

「さうね、」………と照子はわざと仔細らしく考へて見て、「あたしなんか、てんで鈴木の方から口を利かない位なんだから、別段怒らせるやうな眞似をした覺えがないわ。」

「しかし、お前この頃二階へ上り詰めぢやないか。―――もうかうなれば、内輪同士で隱し立てをしたつて詰まらないから、本當の事を云つておくれよ。謙さんにしてもお前にしても、何か鈴木の氣にさはるやうな事があつたのぢやないかい。」

「氣に觸るやうな事ツて、どんなこと?」

「どんな事にも、こんな事にも、此の頃のやうに一日二階へ上つたきりぢや、誰だつて變に取らうぢやないか。わたしは親の慾目から、まさかそんな不行蹟はあるまいと思ふけれど、鈴木の疑ふのは、そりや尤もだよ。―――だから、お前さん逹から正直なところを聞かして貰ひたいのさ。」

「疑ふ人にはいくらでも疑はせてお置きなさいな。世間が何と云つたつて、おツさんさへ、信じて居て下されば有難いわ。」

「それ、さう云ふ言ひ草がお前、親を馬鹿にすると云ふものだよ。折角お前の肩を持たうと思つたつて、傍から親を馬鹿にするやうな素振りがあつちや、わたしに腹を立たせるばかりぢやないか。」

かう云つて、叔母は佐伯を振り返つて、半分は賛成を求めるやうな、半分は實否を糾問きうもんするやうな口調で、

「ねえ謙さん、照子が萬事あれだから、わたしやほんとに手が付けられないんだよ。いくら親の眼が曇つて居たつて、お前さん逹が何をして居るかぐらゐ、大凡おほよそ見當はついて居ますよ。いろ〳〵と若い時分から苦勞した年寄が見れば、とやかう隱し立てをしたところで、直ぐ判るんだからね。今となつて別に叱言を云ふんぢやないから、お前さんから正直な話を聞かして貰ひませう。」

「はあ、僕も大變叔母さんに御心配を掛けちまつて、申譯がありませんが、そりや實際のところ、………」

咄嗟の場合、噓を云はうか、本當を云はうか、自分でも十分に決心しかねて、佐伯は夜具の襟から首を出したが、照子が頻りと眼くばせをするので、忽ち膽玉を太くした。

「………僕等は何の祕密もないんです。全く照ちやんの云ふ通りなんです。」

「ふうん」と、叔母は不服らしく頷いて、よく中年の男がするやうに、小紋縮緬の羽織の袖の中で、片一方の肘を突つ張つた。此の際事實の眞相を捕捉しようとする慾望よりも、二人に輕蔑されまいとする努力の方が、叔母の頭を占領して居るらしい。

「そりやおツ母さんの方が無理だわ。昔の人は、男と女が仲好くしてさへ居れば、直ぐと疑をかけるけれど、つまり此の頃の若い人間の氣持が解らないんだわ。年寄と云ふものは酸いも甘いも嚙み分けた苦勞人になればなる程、變な方へばかり氣を廻すのね。兄さんだつて、あたしだつて、立派に敎育を受けさせて貰ひながら、いまだに親の監督がなければ間違ひがあると思はれて居ちや、ほんとにやり切れないわ。男だらうと、女だらうと、趣味が一致すれば、自然と話が合ふのは當り前ぢやありませんか。誰がそんな嫌らしい事をするもんですか。」

「いゝえね、何も嫌らしい事があつたと云ふんぢやないから………」

今更叔母はアタフタして、眞赤になつて喰つてかゝる照子を制しながら、

「そんな高い聲を出さずと、もつと隱かに話をしたら判るぢやないか。―――まあ、お前逹に詰まらない疑を掛けたのは、私が惡かつたから堪忍しておくれ、ね。しかし、二人がさう云ふきれい﹅﹅﹅な間柄なら、尙更痛くない腹を捜られるのは嫌だし、馬鹿を相手に喧嘩するのも下らないから、一層素直に先方の言ひ分を立てゝ、お氣の毒だが謙さんに内を出て貰つたらどうだらう。」

「そんな事をするに當らないわ。」

照子は怒りに乘じて、一氣に母の提案を揉み消しにかかる。

「おツ母さんがソレだから、彼奴はます〳〵增長するのよ。兄さんが餘所へ越したつて、私が每日のやうに遊びに行くから、やつぱり同じ事だわ。鈴木の威嚇おどかしぐらゐで兄さんを追ひ出したら、それこそ世間の物笑ひだわ。第一、嫌な噂が、いよ〳〵本物らしく取られちまふぢやありませんか。」

「けれどお前、命には換へられませんよ………」

こはい物が直ぐ眼の前に在るやうな顏をして、とうとう叔母は本音を吐いた。

「謙さんが出てさへ吳れゝば、それで納得すると云ふのだから、强ひてあぶない眞似をするには及ばないぢやないか。」

「それがおツ母さん感違ひをして居るのよ。兄さんが出れば出るで、今度は私に遊びに行くなとか、許嫁の約束を履行しろとか、一々云ふ事を聽いて居た日にや、際限がないわ。」

それから凡そ小一時間も、親子は盛んに云ひ爭つたが、結局埒が明かなかつた。

「兄さん、おツ母さんが何と云つたつて、遠慮しなくつていゝ事よ。おツ母さんはいつも泥棒を恐がる癖に、内の中に男が一人も居なかつたら、却つて無用心で仕樣がないわ。」

照子にかう云はれると、佐伯も自ら進んで處決する覺悟にはなれなかつた。自分も照子も、こんなに荒んで了ひながら、まだ何處か知らに戀らしい感情の殘つて居るのが、非常に不調和な、理解し難い心理狀態のやうに思はれた。

「そんならお前逹のいゝやうにおし、私やどうなつたつて知らないから。」

叔母は不平たらたら二階を退却したが、照子の下りて來るまではお雪を寢かさず、自分も長火鉢に倚りかゝつてまんぢり﹅﹅﹅﹅ともしなかつた。

「照ちやん、何だか氣懸りになるから、今夜からお前も此の座敷へ寢ておくれな。」

先刻あれ程口論した事を忘れて、意地も張りもなく、オメオメと嘆願すると、照子は意地の惡い笑ひ方をして、

「だつて、あたしの傍に寢て居ればおツ母さんも捲き添へを喰ふわ。」

などゝ云つた。

其の晚は殊に戶締りを嚴重にし、便所の電燈をつけ放しにして寢て了つたが、明くる日の晝間になつても、叔母の不安は容易に治まらない。戶外の格子が開く度每に、ギクリとして浮き足になり、襖の蔭からおづおづ玄關を窺つて居る。

「雪や、お前使ひに出る時には、よウく内の近所を氣を付けておくれ。」

「はい、別段だアれも居りませんやうでございますよ。」

こんな問答が、ひそかに交換される。

日が暮れて夕飯が濟むと、宵のうちから雨戶を立て切つて、叔母はつくねんと居間に据わつて居る。長火鉢には炭火がパチパチ鳴りながら眞赤に燃え上り、鐵瓶の湯が、さも心丈夫に、賴もしさうにたぎつて居る。

照子は相變らず二階へ行つて下りて來ない。

「ちよツ。」

と、叔母は舌打ちをして、心の中で「ほんとには仕樣がない。人の心配も知らないで、好い氣になつて佐伯にへたばり着いて居る。………また佐伯にしたつてさうだ。どのくらゐ私が苦勞をして居るか解つたら、さツさと家を立ち退いて了ふのが當り前ぢやないか。もう一度二階へ行つて、賴んで見ようか知らん。」

バタリ、と、緣側の戶が風を孕んで内の方へめりこんだかと思ふと、今度は外の方へ吸ひつけられるやうにぎい﹅﹅と動く。不意にこがらしが吹き起つたのらしい。こんな晚に火事でもあつたら………萬一の馬鹿が附け火でもしたら大變である。

ぼん、ぼん、ぼん………と柱時計が八時を打つ。とたんに叔母は立ち上つて、恨めしさうに二階を仰ぎながら、梯子段を上がりかけると、「おかみさん、ちよいと」と雪が眞靑な顏をして手水場てうづばから飛び出して來た。

「あの、氣のせゐか、何だか變でございますよ。ちよいといらしつて下さいまし。」

「變だつて、何が變なの。」

はゞかり﹅﹅﹅﹅の窓の外で、人の跫音が聞えるんでございます。」

「きつと風の音だらう。」

二人は一寸いつすんと傍を離れないやうにして便所の奧へ忍び込み、暫く息を凝らして見たが、跫音らしいものは更に聞えない。唯時々、非常にかすかに、人間の呼吸をするのが、すう、すう、と響いて來るやうである。それだつて、果して呼吸の響きかどうか、興奮した神經には判別がつかないが、たしかに本當だとすれば、何物かがこつそりと便所の羽目へ體をつけて、室内の樣子を捜つてゐるのだと推定される。

「噓をおつきな、なんにも變なことはないぢやないか。」

「左樣でございましたねえ。さツきはどうもをかしいと存じましたけれど、やつぱり氣のせゐでございましたよ。」

互ひに慰めるが如く、囁いて、座敷へ戾らうとしたが、大便所と小便所との境の所まで來ると、忽ち二人は凍り着いたやうにぴたり﹅﹅﹅と立ち止まり、默つて顏を見合せて了つた。恰度彼等の囁きが終るか終らないうちに、「えへん」と云ふ咳拂ひが外に聞えたのである。何か人間以外にあんな聲を出すものがあるか知らん………

二三分の後、叔母は齒の根と膝頭をワクワクさせて、二階へ這ひ上つた。

「いゝえ、あたしもさう思つたんだけれど、風の音ぢやないらしいんだよ。どうしよう謙さん、お前さん一ツ走り交番まで行つて來てくれないか。」

「よく確かめても見ないで、交番へ駈けつけるなんて馬鹿氣てるわ。よしんば本當だつて、泥棒なら嫌だけれど、鈴木だつたら構はないから放つてお置きなさいよ。」

「まあ、下へ行つてよく檢べて見ませう。」

かう云つた佐伯は、多少眼の色を光らせて居たが、兎に角勇氣凛々たるものであつた。大方照子に臀を押されて、否應なしに奮發したのだらう。「人殺し」―――言葉だけでも物凄いのに、不思議な事には、自分ながらをかしい程落ち着き拂つて二人の先へ立ちながら、便所へ下りた。

「どうも、僕にはそんな音が聞えませんな。一つ緣側の戶を外して、庭へ出て見ませう。」

「謙さん何をお云ひだい。戶なんぞ開けたら、尙あぶないぢやないか。―――わたしは戶外おもてへ逃げて行くよ。」

「なあに、大丈夫です。」

高い橋の欄干から身投げをするやうな、ひやツとした心地を壓へ付けて、戶袋に近い雨戶を一二枚繰り開ける。と、眞つ暗な庭から、素晴らしい勢で寒風がひゆうツと舞ひ込んだ。

照子は電燈の綱を延ばして、佐伯の後から庭の木の間の彼方此方へ光線を振り向け始めた。最初に左の塀の隅の、桐の木の周圍がまざまざと明るみへ浮んで、春日燈籠の靑苔まで、鮮やかに照される。同時に佐伯の總身を襟元から爪先へかけて、薄荷はくかのやうなものが一遍スウツと流れて通つた。自分ではまだ落ち着いて居る積りなのに、知らず識らず動悸が裏切りをして居る。

左の端から右へ右へと、電燈は隈なく植込みの隙をあばいて、次第に便所の方へ肉薄した。夕方、二階の窓から棄てた敷島の吸ひ殻が、飛び石の御影みかげの上に落ちて居る所まで、佐伯の眼にありあり映つて居る。

「照ちやん、もつとあかり﹅﹅﹅を前へ出して御覽。」

かう云つて、彼は庭下駄を穿いて、便所の蔭へ步いて行つたが、中途で蜘蛛の巢に襟を掠められた。

見ると鈴木は、じめじめした掃除口の闇にうづくまつて、羽目へペツたり背中を押しつけ、雨蛙のやうにどんよりと、眠るが如く控へて居る。此の場になつて、別段逃げようとも、飛びかゝらうともしない。

「君はこんな所へ何しに來たんだ。………」

と、佐伯が威丈高に立ちはだかつた所は、巡査が乞食を取り調べる光景によく似て居る。

「………さつさと出て行き給へ。」

ぱさ、ぱさ、と八つ手の葉が何處かで鳴つて居る。餘程地面が濕氣て居ると見え、庭下駄が赤土へ粘り着いて、いざと云ふ時に佐伯は素早く退けさうもない。

「いや、」

と云つた鈴木の聲は、心に重いこだはり﹅﹅﹅﹅があるらしく皺嗄れて居た。唇の動くのが全く分らないで、唯黑い影が物を云ふやうである。

「出て行かうと行くまいと、私の勝手だ。君が干涉せんでもいゝでせう。」

「馬鹿を云ひ給へ。人のうちはひり込んで、自分の勝手だと云ふ奴があるか。用があるなら、表から尋ねて來給へ。一體何だつてそんな所にしやがんで﹅﹅﹅﹅﹅居るんだ。」

「何でもいゝぢやありませんか、私には私の考があるんですから。」

事に依つたら、此の男は氣が違つたのぢやあるまいか。自分より先に、此の男が發狂したとすれば痛快である。大いにいたはつて、親切にしてやらうかな―――こんな事を佐伯はちらりと考へた。しかし、發狂したのなら、尙更刃物を振り廻しかねない筈だが、相變らずムツツリして、ジツと蹲踞うづくまつて居る。

「下らない事を云つて居ないで、さツさと出給へ、出給へ。」

いきなり彼は鈴木の襟首を掴んで引つ張つた。

「そんなになさらんでも、お邪魔なら出ますよ。………」

鈴木は少しも抵抗せずに、素直に起き上つて、

「出てもよござんすが、實は鼻緖を切つちやつたんです。ちよいと、其處へ腰をかけさせてくれませんか。」

かう云つて、びつこを曳き曳き、緣側の方へ步いて行つた。

戶袋の傍にはまだ照子が電燈を持つて立つて居た。

「鼻緖を直すなら早くし給へ。」

こんな叱言を浴せられつゝ、鈴木はぢろりと照子を睨んで、廊下へ腰を下ろし、レザーの鼻緖のついた、ぴたんこな山桐の下駄を、片一方の足から外した。此處に居た時分には持つて居なかつた古い茶色の二重廻しを、何處から工面して來たのかぼてぼて﹅﹅﹅﹅と着込んで、鳥打帽を眼深まぶかに冠り、頻りと前壺まへつぼを鹽梅して居る。

「あゝあ、私は不仕合はせな人間ですな。惚れた女は取られるし、………」

不意と嘆息を洩らして照子にあてつけて見たが、一向手ごたへがないらしいので、

「ねえ、照ちやん。」

と、今度は正面から切り出した。但し、やつぱり女の方へは背中を向けて、上體を下駄の處へかゞませながら………

「ねえ、照ちやん。」

と、再び疊みかけた時、照子はキリヽとした調子で、後ろからどやしつけるやうに云つた。

「照ちやんなんて云はないでおくれ。あたしやお前に名前を呼ばれるやうな弱味はないんだから。」

「はゝゝゝ、お孃さんと云つたのは昔の事です。もう私はこちらの書生ではないのですからな。今ぢや緣もゆかりもありませんよ。」

「緣もゆかりもなけりや、さつさと出て行つたらいゝぢやないか。」

「さうてないでも直きに出て行きますよ。………だが、照ちやん、あなたは佐伯に欺されて居るんですぜ。こんな男が何で便りになるもんですか。」

「餘計な世話を燒かなくつてもいゝ事よ。うるさいから早くしておくれな。」

かう云ふと、照子は電燈の綱を鴨居へ懸けて、すたすた奧へ引つ込んだが、八疊の居間から、玄關まで打つ通しに襖が明け放されて、門口の格子ががらんと開いたまゝ、叔母もお雪も姿を見せなかつた。

「さあ出來ました。………」

ぺちやりと下駄を緣先へ放り出して、鈴木は漸く身を起す拍子に、

「佐伯さん、君はどうしても改心しませんか。」

と、目の前に彳んで居る相手を視詰めた。

「君、そんな女々めゝしい事をいつ迄も云つてるもんぢやないよ。僕に恨みがあるなら男らしくテキパキした方法を取るがいゝぢやないか。最後の手段だなんて、口でおどかしたつて、何になるもんか。」

「いや、しかし………」

「馬鹿!」

大渴するや否や、彼は渾身の力を拳に籠めて、耳朶の邊をいやと云ふ程擲りつけた。擲つて了つたら、自分の體が消えてなくなるかと思ふくらゐ、懸命に擲りつけた。此の間から腹の中でばかりたくらんでゐた事を到頭實行して、せいせい﹅﹅﹅﹅したものの、急に胸のつかへが輕くなつた結果、彼はふら〳〵と昏倒しさうになつた。

「たんとお擲りなさい、女はとられるし、男には擲られるし、私も散々ですな。」

「口惜しければ、僕を殺したらいゝだらう、何か刃物を持つて來てやらうか。」

「なに其れには及びませんよ、………」にやにやと笑つて、壞へ手を入れて、「困りましたな、それでは、どうしても改心なさらないんですな。」

「だから殺せと云ふんだ。」

其の瞬間、ぴかりと光つたものが、鈴木の右の手に閃いて、又外套の蔭に隱れた。

「いくらおどかしたつて駄目だぞ、殺すなら早く殺せ。」

佐伯は新派の俳優が見え﹅﹅をするやうに、胸を突き出し、兩手を背後に組んで空を仰いだ、星がきらきらと綺麗に輝いて居る。

それでも鈴木は、まだにやにや笑ひ續けて、容易に斷行するやうな形勢もない。

「ほんとに男らしくない奴だな。殺せないならグヅグヅして居ないで此處を出ろ。」

いゝ氣になつて胸倉を押へつゝ、裏木戶の方へ引き擦り出さうとした刹那、

「そらそら御覽なさい。此れでも男らしくありませんかな。」

かう云ふ言葉と共に、佐伯は頤の下をピシリと鞭で打たれたやうに感じたが、忽ちたらたら血が流れ出した。

「ふん、とうとう斬つたな。感心だよ、男らしいよ。」

よろめきながら、傷口へ手をあてゝ、こんな負け惜しみを云ふ間もなく、鈴木は彼の體を板塀の傍へ踏み潰す如く倒した。さうして、やつぱりにやりにやり笑つて居るらしかつた。

喉笛を抉られる時、佐伯は最後の息を振り絞つて不思議な聲を發したが、それは負け惜しみではなく、痛苦のあまり悲鳴を擧げたのだつたらう。痩せて居る割合に多量の血液が景氣よくほとばしつて手足の指が蜈蚣むかでのやうにをのゝいて居た。

Transcriber's Notes

本テキストは昭和三十三年中央公論社刊「谷崎潤一郎全集 第二巻」を定本にした。