Title: 續惡魔
Author: Jun'ichiro Tanizaki
Release date: October 4, 2011 [eBook #37626]
Most recently updated: February 24, 2021
Language: Japanese
Credits: Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka
Title: 續惡魔 (Zoku-Akuma)
Author: 谷崎潤一郞 (Junichiro Tanizaki)
Language: Japanese
Character set encoding: UTF-8
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka.
「謙さん、お前さん二階で何をして居るんだい。」
かう云つて、下から叔母に怒鳴り付けられる。すると佐伯はワクワク膝頭をふるはせながら梯子段を下りて來て、例の如く冷水を浴び、
「どうも頭痛がして困るんです。」
と、何氣ない
「頭痛がするからツて、あんなに
「いゝえ。」
と云つて、彼は叔母の追求を避けるが如く、
本郷は地盤が堅固だと云ふけれど、叔母の家なんか坂道に建つて居るから、いざとなつたら
一體地震と云ふものは、
どうも佐伯には、大森博士がうす〳〵大地震の起る時期を知つて居ながら、其れを隱して居るやうな氣がしてならなかつた。博士の事だから、大體の見當は付いて居ても、何日の何時何分と云ふ明瞭な豫測が出來ない爲め、乃至いまだ根據のある科學的說明が出來ない爲め、
天長節も過ぎて、十一月の晚秋の空が爽やかに冴え返り、上野の森の木々の梢の黃ばむだ色が、二階の窓から眺められる時分まで、それでも彼はどうにかして生きて居た。相變らず學校は缺席だらけ、いつも座敷の壁の腰張りに頭を擦り附けて、
「兄さん、今何を讀んでいらしつたの。………そんなに隱したつて、妾ちやあんと知つて居るわ。」
かう云ひながら、照子は或る時二階の窓に腰を掛けて、長い兩脚を臥て居る佐伯の眼の前に
「ふゝん」
と鼻の先で輕く笑つた。照子がこんな笑ひ方をするのは、母親や鈴木を對手にする時にのみ限られて居たものだが、此の頃は佐伯に向かつても
「そんなに見られるのが耻づかしくつて?」
と、兩手を窓の
「畜生! 又己の頭を引ツ搔き廻しに來やがつた。折角人が面白さうに本を讀んで居るのに餘計なことだ。」
かう腹の中で叫んだ。さうして讀みさしの「高橋お傳」の講釋本を、シツカリ
「此の本を見せたら、僕よりも君の方が耻づかしいだらう。」
と、胡散臭いことを云つた。
「一體どんな本なの。」
「Obscene picture だよ。」
かう云つて、彼はさも意地が惡るさうに
「いゝわ。構はないから、いくらでも出して御覽なさいな。そんな物を耻づかしいとも珍らしいとも思やしませんから。………」
ふと、佐伯は照子の顏が恐しく obscene な表情に變つて居るのに氣が附いた。いつぞや鈴木が、
「實は以前私とも關係があつたんです。」
と云つた言葉を想ひ出して、此の女の
「成る程、今時の女學生は
ポンと投げるやうに云ひ捨てゝ、一と息深く煙草を吸つて、彼は
「兄さんは正直な癖に噓ツつきね。ちよいと鈴木に似て居るわ。」
と、照子は口元に微笑を泛べ、
「ヘーエ、己はそんなに噓ツつきか知らん。」
かう云つて、力一杯うんと氣張つて
「Obscene picture だなんて、誤魔化したつて駄目よ。あたしちやあんと知つて居るわ。」
「知つて居るなら、いゝぢやないか。」
彼は不覺にも
「人の目を
と、叩き付けるやうに云つたと思ふと、
「人の目を窃んで居るのはお互ひ樣だわ。兄さんだつて、
照子は佐伯の泣きツ
「實はあたし此の間兄さんの本箱を調べて見たの。參考書なんて物は一つもなくツて、妙な講釋本が五六册
いやに落ち着き拂つて、憎らしい程心配さうな表情を裝つてすらすらと
「講釋本が面白ければ、近代人になれないのかい。全體近代人なんてものが、女に
「そんなら、何だツて、そんなに骨を折つて噓をついたり、隱したりなさるの。」
「君はなか〳〵えらいよ。………」
何か
「
佐伯は兩手に頸筋を押さへて、呻吟するやうな言葉遣ひをしながら、
「君に附き合つてると、鈴木でも僕でも、だんだん頭が馬鹿になるんだ。お蔭で僕の神經衰弱は、東京へ來てからズツトひどくなつたよ。近代的であらうが、なからうが、僕はもう講談本以上の込み入つた本なんか、とても讀み續ける根氣がないんだ。」
「そんなに私の事がお氣に
「何でもいゝから、もうあんまり二階へ來ないやうにして貰はうぢやないか。」
云ひ終ると、彼は齒を喰ひ
「あたしが
こんな捨て
もう佐伯は、再び臀の下から「高橋お傳」を取り出して見る勇氣がなかつた。妙に卑しく、
其の
一滴も殘らず飮み干して、空き罎を投げ出すと同時に、げえつと大きな
三十分ばかりの間、彼はいろ〳〵の奇怪な夢を、見ては覺め見ては覺めして、とうとうしまひに、
「うん、
すつぽり被つた夜具の中から、モグモグとこんな問答をして、再び眠り續けた。
けれども、それから後はあんまり眠られなかつた。まだ何處か知らに、十分睡氣が殘つて居さうであるのに、物の二三時間も
此れも「高橋お傳」と同じやうな講釋本である。表紙には、妲妃のお百が髮を振り亂し、短刀を口に咬へて、白い脛、紅い
これより小さんのお百がおひ〳〵毒婦の本性を現はし、無殘にも桑名屋德兵衞を十萬坪に於いて殺害しますると云ふ
などゝ云ふ調子に釣られ、彼は好奇心を煽られながら、愚鈍な
十萬坪の德兵衞殺しの場は、なか〳〵名文である。
………名にし負ふ其の頃の十萬坪の事でございますから、まことに淋しいもの、あたりは
佐伯はふと、自分の喉笛のところへ手をあてゝ、輕く押して見た。恰度古い椅子のスプリングのやうに、皮の下から
それから二三枚の間は息もつかずに惹き入れられて、お百がとうとう佐竹侯のお部屋樣となり濟まし、惡家老の
見ると照子が、梯子段を上り切つた處に、いつの間にか突ツ立つて笑つて居る。
「もうちつと靜かに
欺かれた恨みと驚ろきとを一緖
「だつて、内證で上がつて來たら、却つて兄さんは都合が惡かなくつて。」
いきなり照子はつかつかと枕許へ擦り寄つて、
「ほら御覽なさい。―――此の本はなあに。」
と、据わる拍子に夜具の片袖を膝の下に敷いて、佐伯を押へ付けるやうにしながら、講釋本を奪ひ取つた。
「照ちやん、君は何故さうなんだらう。もう、後生だから彼方へ行つてくれないか。」
佐伯は兩手を顏へあてゝ、下を向いて云つた。
「君は惡魔だ。………人が折角面白さうに本を讀んで居るところを、邪魔しなくつてもいゝぢやないか。己は此れ以上の强い刺戟に堪へられなくなつたんだから、もう直き死ぬ迄、ソウツとして
「そんなに興奮なさらなくつてもいゝわ。今夜はおつ母さんも鈴木も留守だから、ゆつくりお話ししようと思つてやつて來たの。―――あたしに二階へ來るなとか、傍へ寄るなとか云つたつて、そりやあ駄目よ。」
照子は兩方の握り
「兄さんは、お
かう云ふと、今度は片手を袂から出して、背中をさすつてやりながら、息がかゝる位、頰を擦り寄せた。
「鈴木の事なんぞ
眼を閉ぢて、こんな事を云つて居るうちに、佐伯の鼻先でぱつと女の着物のはだける臭がした。さうして、枕許の疊がもくもく持ち上がるやうな氣持がした。疑ひもなく、照子が彼の眞正面へ來て、どつかと据わり直したらしい。
「解つてよ、解つてよ、―――兄さんは、いくらあたしを馬鹿にしたつて、あたしの方から
女は
男の指には、可なり力が入つて居ながら、强ひて抵抗するやうな樣子もなく、
「惡魔! 惡魔!」
と、彼は物狂ほしく連呼したが、やがてぱつちり眼を開くと、女の顏は思つたよりも、もつと間近く、自分の顏の直ぐ前に殺到して居る。彼は
「照ちやん、君は物好きに己を殺すんだ。己を氣狂ひにさせるんだ。………女と云ふ奴は、みんなかう云ふ風にして、男を片つ端から腐らせるだ。」
それから二三日過ぎた。鈴木が居ても、叔母が居ても、照子は構はず二階へ來て一日遊んで居る。
「照ちやん、ちよいと下へ來て、手を借しておくれでないか。お前此の頃は、しツきり無しに二階へ上がり込んで居るが、謙さんと仲直りをしたのかい。」
叔母が梯子段の下から、こんな事を云ふ。
「えゝ、すつかり仲直りをしたのよ。」
と云つて、照子は眼を細くして、狡猾さうに笑ひながら、ぢツと男を見入る。
「おい、もう大槪にして下へ行つてくれ。己は昨今こんな强い刺戟を受けて、どうして生きて居られるのか、不思議でならないんだ。お前が居ると、不安で堪らないから、トツトと下りてくれ給へ。」
佐伯は破裂しさうな心臟を、後生大事にシツカリ押へて、深い深い谷底へ昏々と沈んで行くやうな眩暈と失神とを感じつゝ、女に訴へる。どうかすると、手足の先が水に
丁度四日目の晚、叔母が照子を無理やりに引つ張つて、何處ぞへ外出した留守に、梯子段をみしり、………みしり、………と、相變らず陰鬱な音をさせて、鈴木が
「いや、どうもお邪魔を致して相濟みません。………」
と、云ふかと思ふと、氣むづかしさうな顏の構造を俄かに建て直して、にたにたと笑つた。まるで
「………此の頃は、體のお加減は如何です。」
柄にもないお世辭を振り撒いて、鈴木は枕許へ畏まつて、兩手を行儀よく膝頭へ置いた。何にしても、あまり意外な、底知れぬ態度である。事に依つたら、懷に
「やつぱり、工合が惡くて困ります。―――失敬ですが、御免を蒙つて、此の儘にさせて置いて頂きます。」
佐伯は橫つ倒しに臥ころび、脇の下まで夜具をかけて、片手を其の外へ出した。「人を馬鹿にして居やがる。」
と思ひながら、成る可く落ち着いて、平靜を裝つて、物を言はうと努めて見る。
「さあ、どうぞお樂にいらしつて下さい。………實は何んです、また照子の事に就いて、お伺ひ致したいと存じまして、………」
「はあ、何ですか。」
と、佐伯の受け答へをしたのが、あまり早すぎたので、鈴木は頓着なく話を進める。
「此の頃照子が、ちよいちよい二階へお邪魔に伺ふやうですが、あれはどう云ふ譯でございませう。」
全然監督者の
「いつぞや、お願ひした事を、あなたはお忘れになりはしないですか。」
「あなたは僕にどんな事をお賴みなすつたか知れませんが、僕は何も承諾した覺えはありませんよ。―――照ちやんの事は兎に角として、其れだけは明かにして置いて下さい。」
「いや、承諾なさらなかつたと仰つしやるなら、仕方がないです。そんなら、其れは別として、照子の事を今少しお尋ねしませう。………」
かう云つて、鈴木は左の手で一方の袂を捲くつて、右の手の二の腕の
「私には此の二三日、どうも照子のあなたに對する素振が可笑しいと思はれるんです。―――またあなたにしてもさうでせう。何も私から賴まれないと仰つしやつたところで、
「はゝあ。」
と云つて、佐伯は敷島を一服吸つて、鼻の穴から立ち昇る煙の痕を眺めた。極めて取り濟ました挨拶振りであるが、此れは相手を輕蔑する爲めよりも、寧ろ相手の恐るゝに足らざる事を、自分の神經に納得させる爲めに云つたのである。煙草を一寸ばかり吹かすと、直ぐに吸ひ殻を煙草盆の中へ投げ込んで、今度は硝子窓の方を向いた。………空が眞黑で、星が一つも見えない。………神經は十分納得が出來ないかして、未だイライラと騷いで居る。恰も胸の中に、無數の一寸法師が、
鈴木は始終の樣子をヂロヂロと眺め、佐伯の手の働く所、首の赴く所を、瞳で追ひ駈けて居たが、遂に返答がないので、暫くもぢもぢ
「さう云ふやうに默つていらしつても、御返事がない間は、一と晚でもかうやつて居りますから、斷乎とした、男らしい御返事をなすつた方がいゝでせう。それに、あなたの其の御樣子を見ても、もう大槪は私に
いくら平靜を裝はうとしたつて、鈴木に口を利かせて置けば置く程、
「僕の考へと云へと云つたつて、考へなんかないんだから、御返事する必要はありませんよ。君の方で大槪解つたのなら、それでいゝぢやありませんか。」
窓外の桐の葉に、パラパラと音がして雨が降り出した。早く照子が歸つて來ればいゝが、………
「フン、何かとおもつたら、さう云ふ事を仰つしやる。―――あなたが、さう云ふ卑屈な態度をお取りになるのは、結局御損ですよ。」急に
とうとう來たな、と、佐伯は腹の底で呟いた。斯う
「君の方に決心があるなら、何とでもいゝやうにし給へ。―――もと〳〵僕は、君からそんな故障を申し込まれる理由はないんだ。照ちやんが自分で勝手に二階へやつて來て、遊んでるんだから僕の知つた事ぢやありませんよ。故障を云ふなら照ちやんに云ひ給へ。」
「いや、女なぞに理窟を云つたつて解るもんぢやないです。それよりか、あなたが照子に代つて辯解なさるだけの責任がおありでせう。………ないと云ふ筈はございますまい。」
「僕に責任が?」
「はゝ」
と、鈴木はさも
「どうせ、そんな事を仰つしやるでせうと思つて居ました。しかし私は昨日、照子の祕密にして居る日記を見て了つたのです。あなたは旣に姦通をしていらつしやるぢやありませんか。」
かう云つて、せゝら笑つて居る。笑ふ拍子に厚い唇の奧で、
「おい君、ちつと氣を附けて物を云ひ給へ。………」
何とか後を誤魔化さうとしたが、モウ到底隱し切れないやうになつたので、
「姦通と云ふのはをかしいぢやないか。よしんば僕と照ちやんと關係があつたとしたところで、姦通よばゝりをする法はないだらう。」
「關係があつたところで、ですか、………さう曖昧に仰つしやらずと、實際關係があつたと仰つしやつたら如何です。」
「そりや、關係はあつたさ。」
今迄の言動とは甚だしく矛盾した事を、彼は苦もなく是認して、冷然と云ひ放つた。言下に鈴木の懷から
「そら御覽なさい。」
鈴木は、討論會で相手を
「關係がある以上は、姦通でございませう。―――いつぞやお話しました通り、私と照子とは
「君は其の積りかも知れないが、照子ちやんの方ぢや、約束をした覺えがないと云つてるぜ。自分で獨り極めにして、姦通呼ばゝりするなんて非常識極まる。―――きみはそんな理窟が、世間に通ると思つてるのか。」
「照子が何と云つたつて、彼奴の云ふ事なんぞ、信用は出來ませんよ。―――照子の父が
「だからさ、だからさ、そんな苦情は僕の知つた事ぢやないんだから、照子の方へ持つて行つたらどうだ。照子で解らなければ母親も居るぜ。」
かう罵つて居るうちに癇癪玉が破裂して、佐伯の顏は見る見る眞赤に充血した。もうかうなつたら、何でも彼でも怒鳴り續ける積りで、口の中に
「いや、今日になつて母親の意見を聞く必要もないです。母親や照子がたとへ何と云つたところで、一度約束した以上は、私は其れを認めて居るんです。許嫁と云ふ事は立派な旣成の事實なんですから、私は唯、あなたの姦通の罪を責めればいゝのです。―――此の事件に就いて、あなたはどう云ふ處置をお取り下さるか。………」
「君、面倒だから、いつそ二人で決鬪しようか。ねえ、それが一番きまりが着いていゝ。」
突然、佐伯はこんな事を云つた。さうして、さもさも勇氣
「ま、さう仰つしやらずとも、隱かに解決する方法がございませう。………」
意外にも、鈴木は少し面喰らつて、殊更柔和な顏を拵へながら、
「お互ひに高等敎育を受けた人間ですから、そんな野蠻な行爲はしたくないです。私はあなたが謝罪の誠意さへ示して下されば、それで滿足しちまふんですよ。なあにあなた、決鬪だの何だのとそんな馬鹿らしい眞似をするには及ぶもんですか。」
「僕は君に對して、何の罪も犯して居ないんだから、謝罪なんか出來ないぜ。―――決鬪しようよ君、其れが一番いゝつてば。」
「ふん、まださう云ふ事を仰つしやる。―――立派に姦通をしていらつしやりながら、謝罪が出來ないと云ふのは可笑しいですな。」
「君は馬鹿だな、よつぽどひどい馬鹿だな。かりに照子が許嫁だつたつて、現在同棲して居ないものを、何處が姦通なんだ。」
佐伯は咆えるやうにガミガミと此れだけ
「はゝ、女の事では誰でも馬鹿になりますよ。―――私なども、隨分照子には馬鹿にされましたからな………」
かう云つた時、鈴木の愚鈍な容貌は一層暗くなつて、淋しい笑ひと一緖に、悲しげな表情が泛んだ。
「しかし、あまり馬鹿にし過ぎると、私も默つて居ないです。―――そりや成る程、法律上から云へば、姦通ではないでせう。けれども、あなたに良心がおありになるなら、そんな理窟は仰つしやれない筈ですがな。―――ま、明日まで御返事をお待ち申しても宜しうございますから、今夜ゆつくりとお考へなすつて下さい。私の方が正しいか、あなたの方が正しいか、落ち着いてお考へになつたら、そりやキツトお解りになるでせう。………」
出來るだけ相手の話が聞えないやうに、佐伯は心を餘所へ外らして、一生懸命興奮を押し鎭める事に努めた。其の恰好は、丁度五段目の勘平が切腹して今にも落ち入らうとする
「兎に角、御參考までに申し上げて置きますが、つまり私は此れだけの處置を付けて頂きたいんです。―――先づ第一に姦通の事實を認めて、謝罪狀を書いて頂く事。それからですな、謝罪の條件として、將來斷然照子と手をお切り下さること。………」
と、鈴木は、爪の先が悉く短く喰ひ切られた右の手の指を折り數へて、
「手をお切り下さる證據に、此處の家を立ち退いて頂く事、………尤も此れは何ですよ、下宿をお尋ねなさる御都合もございませうから、五日以内に實行して下されば宜しいのですよ。あなたが照子に野心を持つておいでにならなければ、以上の條件を承諾なさるのは、そんなにむづかしい事ではございますまい。どうか一つ、
云ふだけの事を云つたら、好い加減にして引き退つたらよささうだが、殆んど際限なくブツブツと口を動かす。相手がどんな
「………お互ひにつまらぬ女の事なぞで、爭論したかないですよ。此れを御緣に御交際を願つて、又何かの時には私のやうな者でも、及ばずながらお力添へにならない事もないでせう。此れが男と女ぢや仕方がありませんけれど、男同士の喧嘩なんですから、濟んで了へば却つてサツパリして好い心持ちです。はゝ。」
佐伯は頭から蒲團を
「やい、もう堪忍ならねえぞ!」
と、云ふより早く懷の匕首を拔き放ち、夜具の上からズバリとやられるかも知れない。伊勢音頭の
さうだとすれば、蒲團を被つて知らん顏をして居るのは、危險千萬である。敵の動作がまるきり見えないから、いざと云ふ場合に逃げる事は愚か、聲一つ立てる譯に行かない。それでも、何か知ら敵の喋舌つて居る間は安心だが、言葉の途切れた時が、
ちりん、と階下の格子を開ける音がして、叔母と照子が歸つて來た。
「おゝ寒かつた、おツ母さんあたし風を引いちやつたわ。―――さつきの駱駝の襟卷を買つてくれないからよ。」
などゝ云ふ照子の無遠慮な聲が二階へ響くと、佐伯の
「や、どうもお邪魔致しました。」
と、やをら身を起したが、
「また彼奴等に知れると面倒ですから、萬事あなたのお考へから出たやうにして、先程申し上げた通りの御處置を願ひたいんです。―――明日一杯お待ち申しますから、照子などに御相談なさらんで、祕密に御囘答をなすつて頂きたい。」
こんな事を云つて成る可く
「照ちやん、まあ着物だけでも着換へてからにおしなね。」
かう云ふ叔母の言葉が遠くに聞えて、
「いゝえ、ちよいといま直ぐ下りるわ。」
と云ひながら、照子が入れ違ひに梯子段を上がつて來た。さうして、男の傍へ
「鈴木が何しにやつて來たの。」
と、消えかゝつた火鉢の炭をいぢり始めた。
何でも、大分夜が更けたのだらう。電燈のあかりが一時ぼんやり暗くなつて、再びパツと明るく照つた。ばらばらばらと桐の葉に、思ひ出したやうな雨の雫があたるけれど、格別の降りではないらしい。
「ねえ兄さん。………何しに來たの。」
かう催促されたが、佐伯はやつぱり蒲團の中へ首を埋めて、
「お前、何處へ行つてたんだ。」
暫く立つと、彼は寢言のやうな調子で云つて、たつた今眼が覺めたやうに、眼瞼をぱちぱちやらせながら、途方もない橫
「何處へ行つたつて、そんな事は構はないわ。―――それよりか、鈴木が何で此處へ來たのよ。あたしに云ふなツて
「馬鹿を云へ。」
佐伯は出來るだけ瞳を額の方へ吊り上げ、殆んど窪んだ眼球が眉毛へ着くくらゐにして、仰向きに女の膝頭から腹、胸、襟のあたりをつく〴〵と眺めた。凡そ此の女の血色程、每日のやうに變化するものはあるまい。今日はおもての寒氣に觸れたせゐか頰
「照ちやん、お前鈴木と何か關係した事があるのかい。」
いつか一度は尋ねよう尋ねようと企らんで居た質問を、彼は此の機會に乘じて提出した。
「つまらない事を
「だつて鈴木は、立派に關係があると云つたぜ。」
「誰があんな奴と………」
「あんな奴でも、昔は秀才だつたさうだから、何ともわからないな。」
「解らなければ解らなくつてもいゝわ。そんなに辯解したかなくつてよ。―――若し關係があつたとしたら、それがどうなの。」
「己逹のした事は姦通だの何だのツて、あんまり彼奴の鼻息がえらいからさ。」
「それぢや兄さんは、すつかり鈴木に白狀しちやつたの。」
「うん、お前の日記を内證で見たんださうだ。もう隱したつて仕樣がないよ。」
佐伯は「どうでもなれ」と云ふ心になつて、投げ出すやうな
「そりや鈴木が鎌を掛けたんだわ。あたし内證にも何にも日記なんか書きはしませんもの。―――兄さんは欺されたのよ。」
「馬鹿の癖に、いやに小刀細工をする奴だな。………」
かう嘲つては見たものゝ、ウマウマ一杯喰はされたかと思ふと、彼はいよ〳〵鈴木が憎らしくつて、業が煮えて堪らない。………いまいましさに腹の蟲がムヅムヅして、あたりの物を、手あたり次第に打ツつけてやりたくなつた。
「………知れたら知れたで構はないぢやないか。どうせ判るにきまつて居るんだ。」
「兄さんも隨分人が好いのね。自然と知れたのなら好いけれど鎌を掛けられて白狀するなんて、まるでお話しにならないわ。
かう云つて、照子は襟にかけたヹールを外して、ふわツと男の夜具の上へ放り出すと、今度は大儀らしく橫倒しに寢ころび、佐伯の頭の方へ自分の顏を持つて行つて頰杖をついた。長い體が恰も蒲團と丁字形に、男の枕許を弓なりに包圍して丘の如く蔽うて居る。戶外より少しは暖かい室内の空氣にぬくめられて、血色はいつの間にか眞つ白に生き生きとして來た。
「鎌を掛けても掛けないでも、あんな奴には、どんどん本當の事を云つちまふ方がいゝんだ。
佐伯は兩手を頭の下に敷いて、天井を睨みながら、さも
「それで鈴木は、姦通したからどうしろツて?」
「己に謝罪狀を書いて、此の家を出てくれツて云ふから、頭からドヤしつけて追つ拂つたんだ。―――あの馬鹿野郞!」
鈴木に
「若しかすると、兄さんは鈴木に殺されてよ。………」
半分は冷やかすやうに、半分は心配するやうに云つて、照子は唇にむづ痒さうな笑を泛べたが、それは仰向いて居る男の眼へは入らなかつた。
「殺すなら、殺すがいゝ、彼奴は始めツから己を目の敵にして狙つてるんだから、關係しようと、しなからうと、どうせかうなるにきまつてゐるんだ。」
「ふゝ、大丈夫よ。」
橫倒しのまゝ、腰の骨を使つて、疊の上を游ぎながら、女は自分の顏が男の内ぶところへ入るくらゐ擦り寄つた。二人の體は丁度
「恐がらなくつてもいゝぢやありませんか。彼奴は人を殺せるやうな、そんなテキパキした人間ぢやないんですもの。あたしなんか、散々馬鹿にし拔いてやるけれど、怒つた顏一つしやしないわ。ほんとに大丈夫よ。さつきのは冗談に威嚇かして見たの、ほんとに安心よ。だから此れからいくらだつて………」
話の間に佐伯はぐるりと首を相手の方へ曲げて
「殺されない、殺されないと思つて居ると大違ひだ。己逹は殺されるより外、別に方法がないやうにばかりし向けてるぢやないか。彼奴はお前を殺さなくつても、己を殺すにきまつて居る。―――
「そんな豫言は神經衰弱の結果だわ。」
「神經が衰弱すると、却つて或る方面には銳敏に働くから、普通の人間の判らない事まで感じるんだよ。」
「鈴木に殺されるくらゐなら、あたしに殺された方がよかなくつて?」
かう云つて女は、頰にあてがつた肘を外して、十本の左右の指を組み合はせて、
あくる日の朝、鈴木はいつものやうに庭を掃除すると、包みをかゝへて、神田の私立大學へ出かけて行つたが、夕方になつても歸つて來なかつた。三時半に電燈がついて、四時半ごろからそろ〳〵暗くなつて、追ひ追ひ風呂を沸かす刻限の近づくに隨ひ、佐伯と照子は何となく其れが氣がゝりになり出した。
「鈴木はどうしたんだらうね。大變歸りが遲いやうぢやないか。」
晚飯が出來上がりかけた時、とうとう叔母がこんな不審を打ち始めた。しかし、飯が濟んで臺所が片附いて了つても、鈴木はなかなか戾つて來ない。
「ほんたうにどうしたんだらう。をかしいぢやないか。―――雪や、お前御苦勞だが、鈴木が居ないから、湯殿を焚きつけておくれ。」
叔母の不審は夜の更けると共に次第に强くなつて、口叱言がだんだん激しくなる。
「ま、もう八時だよ。冗談ぢやないどうしたつてんだらう。」―――最初は叱言のやうに口を尖らして、ブツブツやかましく呟いて居たのが、やがて泣き出すやうな、恐怖に襲はれたやうな調子と變じ、
「雪や、鈴木は今朝何時ごろに出て行つたのだい。」
風呂から上がつて來て、柱時計を眺めながら、かう尋ねた時の叔母の顏
「左樣でございますね。たしか七時半ごろでございましたらうよ。
お雪は人の心配なんぞ少しも氣に留めないで、至極無邪氣に、こんな事を訴へる。
「今朝は別段、いつもと變つたやうな樣子はなかつたかい。」
「さあ、………尤も此の二三日は大分不機嫌で、あたしと喧嘩ばかりして居りましたつけ。」
「
「いゝえ、そんな樣子は………」
皆まで云はせず、叔母はもどかしさうに
「をかしいねえ、………着物も
と、云つたまゝ、呆然と彳んで了つた。
「さう云へば此處に、法律の本らしいものが、五六册立てゝございましたのに、其れが見えないやうでございますよ。」
アツケに取られたお雪は、叔母のうしろから附いて來て、暫く
此の騷動の最中、照子は二階へ上つたきり姿を見せなかつた。實は叔母も、とうから照子に相談して、憂ひを共にしたかつたのだが、鈴木の事を云ふと、「あんな奴に何が出來るもんですか。」とか、「恐がればいゝ氣になつて增長するばかりです。」とか、
「照ちやん、照ちやん。」
と、今にも大變事が起りさうな惶てかたをして、けたたましく梯子段を駈け上つた。
「お前、鈴木がいまだに歸つて來ないんだよ。」
「そんなら屹度、内を逃げ出したんでせう。」
男の枕許の火鉢にあたりながら、照子は雜作もなく斷言して、母の方を振り向いても見ない。
「さうかねえ。………また例の癖が始まつたんぢやないか知らん。お前何か、鈴木を怒らせるやうな事でもしたのかい。」
女房が亭主に寄り添ふ如く、母は娘の傍へべつたり据わつて、救ひを求むるやうに膝をつけた。するとお雪が、
「おかみさん、おかみさん………」
と、階下から
「硯箱の中に、何だか置き手紙が入れてございますよ。」
「さうかい。ちよいと二階へ持つて來ておくれ。」
續いて、再びばた〳〵と梯子段を駈け昇る音がして、お雪が爆裂彈でも運ぶやうに、氣味わる〳〵赤い封筒の書面を持つて來る。
「いゝから、お前は下へ行つておいで。」
受け取ると等しく、叔母は、狀袋の頭を引きちぎりながら、お雪を追ひ返して、勸進帳を讀むやうに、手紙を兩手で胸のあたりに支へ持つた。
讀んで行くうちに、叔母の眼つきは胡散らしく光つて、自然と眉を顰め唇を結び憎らしさうな恐ろしさうな、いろいろな表情を湛へたが、最後まで讀み終ると、全く顏が
「まあ、お前さん逹此れを見て御覽。」
と、二人の前へ投げ出した。
果して、どんな凄い文句が列べてあるのか知らん。―――佐伯は眩暈を
もう讀まない先から例の動悸が、心臓を破れんばかりに叩いて居る。照子は火鉢の緣へ頤を載せて、對角線の方面から、斜めに覗き込んで居る。
予は今夜を限りとして、二度と再び此の家に戾らぬ決心ナリ、最早や此の家の飯を喰ふも家族の顔を見るも不愉快となりたり、其の理由原因ハ、各自の胸にきいて見れば
予ハ第一に照子の母たる久子の罪を鳴らさゞる可からず。汝は夫敏造氏の死後果してよく未亡人たるの勤めを完うセシヤ。敏造氏生前の遺訓に
殊に敏造氏が娘照子を予に
アヽ予は汝等母子の爲めに實に半生を誤られたり矣。サレド記憶せよ、予ハ汝等に對して復讐せずんば
終りニ臨みて、尙佐伯に一言せん。もはや此の場合となりては最後の手段を下すに一刻の猶豫もなり難けれど、汝にして直ちに悔い改め、予が昨夜提出シタル條件を卽時實行して、林の家を立ちのかば、或は許容の道ナキニ非ズ、予ハたとへ家にあらずとも、汝等の行動ハ常に怠リナク監視しつゝあり。若し飽く迄も予に反抗するならば、それだけの用心が肝要なり。少くとも闇夜に外出する時は注意すべし。
これで手紙は終つて居る。脅迫狀を投げ込まれたら、嘸かし恐ろしいだらうと想像して居たのが、實際にぶつかると案外恐ろしいものではない。多少薄氣味惡いだけの話である。
「はゝ、とうとう奴さん癇癪玉を破裂させましたね。」
かう云つて、佐伯は叔母の方を向いた。ところが、手紙よりも叔母の顏を見て居ると、却つて恐ろしさが感じさせられる。
「何を云つたつて、ウツチヤラかして置けば、又直き戾つて來るわ。」
照子はスツカリ手紙を讀んだ癖に、ろくろく眼を通さないやうな風をして云つた。
「ほんとに戾つて來るか知ら、あたしや今度はどうかと思ふよ………」
叔母は胴ぶるひをしながら、及び腰になつて火鉢へ掴まり、再び疊の上の書面を視詰めて居る。
「………内に居れば居るで、始終ブツブツ云つてるし、逃げ出せば逃げ出すで心配だし、あたしや彼奴にはもうもう困り切つちまふよ。それでもまあ内に居る間は斬るの突くのツて心配がないからいゝが、外へ出た日にや、何を
三人は暫く默つて、聞くともなしに戶外の物音に耳を澄ました。晝間でもあまり人通りの繁からぬ往來の夜は眞つ暗で、板塀にぴツたり體を着けて居たら、二三尺離れるとなかなか見付かりさうもない。其の外路次の
すると、ぱた、ぱた、と遠くの方から、人の忍び寄るやうな跫音が、三人の耳へ響き始めた。
「何かい、………近頃になつてお前さん逹は、鈴木に腹でも立たせるやうな事をしたのかい。」
「さうね、」………と照子はわざと仔細らしく考へて見て、「あたしなんか、てんで鈴木の方から口を利かない位なんだから、別段怒らせるやうな眞似をした覺えがないわ。」
「しかし、お前この頃二階へ上り詰めぢやないか。―――もうかうなれば、内輪同士で隱し立てをしたつて詰まらないから、本當の事を云つておくれよ。謙さんにしてもお前にしても、何か鈴木の氣に
「氣に觸るやうな事ツて、どんなこと?」
「どんな事にも、こんな事にも、此の頃のやうに一日二階へ上つたきりぢや、誰だつて變に取らうぢやないか。わたしは親の慾目から、まさかそんな不行蹟はあるまいと思ふけれど、鈴木の疑ふのは、そりや尤もだよ。―――だから、お前さん逹から正直なところを聞かして貰ひたいのさ。」
「疑ふ人にはいくらでも疑はせてお置きなさいな。世間が何と云つたつて、おツ
「それ、さう云ふ言ひ草がお前、親を馬鹿にすると云ふものだよ。折角お前の肩を持たうと思つたつて、傍から親を馬鹿にするやうな素振りがあつちや、わたしに腹を立たせるばかりぢやないか。」
かう云つて、叔母は佐伯を振り返つて、半分は賛成を求めるやうな、半分は實否を
「ねえ謙さん、照子が萬事あれだから、わたしやほんとに手が付けられないんだよ。いくら親の眼が曇つて居たつて、お前さん逹が何をして居るかぐらゐ、
「はあ、僕も大變叔母さんに御心配を掛けちまつて、申譯がありませんが、そりや實際のところ、………」
咄嗟の場合、噓を云はうか、本當を云はうか、自分でも十分に決心しかねて、佐伯は夜具の襟から首を出したが、照子が頻りと眼くばせをするので、忽ち膽玉を太くした。
「………僕等は何の祕密もないんです。全く照ちやんの云ふ通りなんです。」
「ふうん」と、叔母は不服らしく頷いて、よく中年の男がするやうに、小紋縮緬の羽織の袖の中で、片一方の肘を突つ張つた。此の際事實の眞相を捕捉しようとする慾望よりも、二人に輕蔑されまいとする努力の方が、叔母の頭を占領して居るらしい。
「そりやおツ母さんの方が無理だわ。昔の人は、男と女が仲好くしてさへ居れば、直ぐと疑をかけるけれど、つまり此の頃の若い人間の氣持が解らないんだわ。年寄と云ふものは酸いも甘いも嚙み分けた苦勞人になればなる程、變な方へばかり氣を廻すのね。兄さんだつて、あたしだつて、立派に敎育を受けさせて貰ひながら、いまだに親の監督がなければ間違ひがあると思はれて居ちや、ほんとにやり切れないわ。男だらうと、女だらうと、趣味が一致すれば、自然と話が合ふのは當り前ぢやありませんか。誰がそんな嫌らしい事をするもんですか。」
「いゝえね、何も嫌らしい事があつたと云ふんぢやないから………」
今更叔母はアタフタして、眞赤になつて喰つてかゝる照子を制しながら、
「そんな高い聲を出さずと、もつと隱かに話をしたら判るぢやないか。―――まあ、お前逹に詰まらない疑を掛けたのは、私が惡かつたから堪忍しておくれ、ね。しかし、二人がさう云ふ
「そんな事をするに當らないわ。」
照子は怒りに乘じて、一氣に母の提案を揉み消しにかかる。
「おツ母さんがソレだから、彼奴はます〳〵增長するのよ。兄さんが餘所へ越したつて、私が每日のやうに遊びに行くから、やつぱり同じ事だわ。鈴木の
「けれどお前、命には換へられませんよ………」
こはい物が直ぐ眼の前に在るやうな顏をして、とうとう叔母は本音を吐いた。
「謙さんが出てさへ吳れゝば、それで納得すると云ふのだから、强ひてあぶない眞似をするには及ばないぢやないか。」
「それがおツ母さん感違ひをして居るのよ。兄さんが出れば出るで、今度は私に遊びに行くなとか、許嫁の約束を履行しろとか、一々云ふ事を聽いて居た日にや、際限がないわ。」
それから凡そ小一時間も、親子は盛んに云ひ爭つたが、結局埒が明かなかつた。
「兄さん、おツ母さんが何と云つたつて、遠慮しなくつていゝ事よ。おツ母さんはいつも泥棒を恐がる癖に、内の中に男が一人も居なかつたら、却つて無用心で仕樣がないわ。」
照子にかう云はれると、佐伯も自ら進んで處決する覺悟にはなれなかつた。自分も照子も、こんなに荒んで了ひながら、まだ何處か知らに戀らしい感情の殘つて居るのが、非常に不調和な、理解し難い心理狀態のやうに思はれた。
「そんならお前逹のいゝやうにおし、私やどうなつたつて知らないから。」
叔母は不平たらたら二階を退却したが、照子の下りて來るまではお雪を寢かさず、自分も長火鉢に倚りかゝつて
「照ちやん、何だか氣懸りになるから、今夜からお前も此の座敷へ寢ておくれな。」
先刻あれ程口論した事を忘れて、意地も張りもなく、オメオメと嘆願すると、照子は意地の惡い笑ひ方をして、
「だつて、あたしの傍に寢て居ればおツ母さんも捲き添へを喰ふわ。」
などゝ云つた。
其の晚は殊に戶締りを嚴重にし、便所の電燈をつけ放しにして寢て了つたが、明くる日の晝間になつても、叔母の不安は容易に治まらない。戶外の格子が開く度每に、ギクリとして浮き足になり、襖の蔭からおづおづ玄關を窺つて居る。
「雪や、お前使ひに出る時には、よウく内の近所を氣を付けておくれ。」
「はい、別段だアれも居りませんやうでございますよ。」
こんな問答が、ひそかに交換される。
日が暮れて夕飯が濟むと、宵のうちから雨戶を立て切つて、叔母はつくねんと居間に据わつて居る。長火鉢には炭火がパチパチ鳴りながら眞赤に燃え上り、鐵瓶の湯が、さも心丈夫に、賴もしさうに
照子は相變らず二階へ行つて下りて來ない。
「ちよツ。」
と、叔母は舌打ちをして、心の中で「ほんとに
バタリ、と、緣側の戶が風を孕んで内の方へめりこんだかと思ふと、今度は外の方へ吸ひつけられるやうに
ぼん、ぼん、ぼん………と柱時計が八時を打つ。とたんに叔母は立ち上つて、恨めしさうに二階を仰ぎながら、梯子段を上がりかけると、「おかみさん、ちよいと」と雪が眞靑な顏をして
「あの、氣のせゐか、何だか變でございますよ。ちよいといらしつて下さいまし。」
「變だつて、何が變なの。」
「
「きつと風の音だらう。」
二人は
「噓をおつきな、なんにも變なことはないぢやないか。」
「左樣でございましたねえ。さツきはどうもをかしいと存じましたけれど、やつぱり氣のせゐでございましたよ。」
互ひに慰めるが如く、囁いて、座敷へ戾らうとしたが、大便所と小便所との境の所まで來ると、忽ち二人は凍り着いたやうに
二三分の後、叔母は齒の根と膝頭をワクワクさせて、二階へ這ひ上つた。
「いゝえ、あたしもさう思つたんだけれど、風の音ぢやないらしいんだよ。どうしよう謙さん、お前さん一ツ走り交番まで行つて來てくれないか。」
「よく確かめても見ないで、交番へ駈けつけるなんて馬鹿氣てるわ。よしんば本當だつて、泥棒なら嫌だけれど、鈴木だつたら構はないから放つてお置きなさいよ。」
「まあ、下へ行つてよく檢べて見ませう。」
かう云つた佐伯は、多少眼の色を光らせて居たが、兎に角勇氣凛々たるものであつた。大方照子に臀を押されて、否應なしに奮發したのだらう。「人殺し」―――言葉だけでも物凄いのに、不思議な事には、自分ながらをかしい程落ち着き拂つて二人の先へ立ちながら、便所へ下りた。
「どうも、僕にはそんな音が聞えませんな。一つ緣側の戶を外して、庭へ出て見ませう。」
「謙さん何をお云ひだい。戶なんぞ開けたら、尙あぶないぢやないか。―――わたしは
「なあに、大丈夫です。」
高い橋の欄干から身投げをするやうな、ひやツとした心地を壓へ付けて、戶袋に近い雨戶を一二枚繰り開ける。と、眞つ暗な庭から、素晴らしい勢で寒風がひゆうツと舞ひ込んだ。
照子は電燈の綱を延ばして、佐伯の後から庭の木の間の彼方此方へ光線を振り向け始めた。最初に左の塀の隅の、桐の木の周圍がまざまざと明るみへ浮んで、春日燈籠の靑苔まで、鮮やかに照される。同時に佐伯の總身を襟元から爪先へかけて、
左の端から右へ右へと、電燈は隈なく植込みの隙を
「照ちやん、もつと
かう云つて、彼は庭下駄を穿いて、便所の蔭へ步いて行つたが、中途で蜘蛛の巢に襟を掠められた。
見ると鈴木は、じめじめした掃除口の闇にうづくまつて、羽目へペツたり背中を押しつけ、雨蛙のやうにどんよりと、眠るが如く控へて居る。此の場になつて、別段逃げようとも、飛びかゝらうともしない。
「君はこんな所へ何しに來たんだ。………」
と、佐伯が威丈高に立ちはだかつた所は、巡査が乞食を取り調べる光景によく似て居る。
「………さつさと出て行き給へ。」
ぱさ、ぱさ、と八つ手の葉が何處かで鳴つて居る。餘程地面が濕氣て居ると見え、庭下駄が赤土へ粘り着いて、いざと云ふ時に佐伯は素早く
「いや、」
と云つた鈴木の聲は、心に重い
「出て行かうと行くまいと、私の勝手だ。君が干涉せんでもいゝでせう。」
「馬鹿を云ひ給へ。人の
「何でもいゝぢやありませんか、私には私の考があるんですから。」
事に依つたら、此の男は氣が違つたのぢやあるまいか。自分より先に、此の男が發狂したとすれば痛快である。大いにいたはつて、親切にしてやらうかな―――こんな事を佐伯はちらりと考へた。しかし、發狂したのなら、尙更刃物を振り廻しかねない筈だが、相變らずムツツリして、ジツと
「下らない事を云つて居ないで、さツさと出給へ、出給へ。」
いきなり彼は鈴木の襟首を掴んで引つ張つた。
「そんなになさらんでも、お邪魔なら出ますよ。………」
鈴木は少しも抵抗せずに、素直に起き上つて、
「出てもよござんすが、實は鼻緖を切つちやつたんです。ちよいと、其處へ腰をかけさせてくれませんか。」
かう云つて、
戶袋の傍にはまだ照子が電燈を持つて立つて居た。
「鼻緖を直すなら早くし給へ。」
こんな叱言を浴せられつゝ、鈴木はぢろりと照子を睨んで、廊下へ腰を下ろし、レザーの鼻緖のついた、ぴたんこな山桐の下駄を、片一方の足から外した。此處に居た時分には持つて居なかつた古い茶色の二重廻しを、何處から工面して來たのか
「あゝあ、私は不仕合はせな人間ですな。惚れた女は取られるし、………」
不意と嘆息を洩らして照子にあてつけて見たが、一向手ごたへがないらしいので、
「ねえ、照ちやん。」
と、今度は正面から切り出した。但し、やつぱり女の方へは背中を向けて、上體を下駄の處へ
「ねえ、照ちやん。」
と、再び疊みかけた時、照子はキリヽとした調子で、後ろからどやしつけるやうに云つた。
「照ちやんなんて云はないでおくれ。あたしやお前に名前を呼ばれるやうな弱味はないんだから。」
「はゝゝゝ、お孃さんと云つたのは昔の事です。もう私はこちらの書生ではないのですからな。今ぢや緣もゆかりもありませんよ。」
「緣もゆかりもなけりや、さつさと出て行つたらいゝぢやないか。」
「さう
「餘計な世話を燒かなくつてもいゝ事よ。うるさいから早くしておくれな。」
かう云ふと、照子は電燈の綱を鴨居へ懸けて、すたすた奧へ引つ込んだが、八疊の居間から、玄關まで打つ通しに襖が明け放されて、門口の格子ががらんと開いたまゝ、叔母もお雪も姿を見せなかつた。
「さあ出來ました。………」
ぺちやりと下駄を緣先へ放り出して、鈴木は漸く身を起す拍子に、
「佐伯さん、君はどうしても改心しませんか。」
と、目の前に彳んで居る相手を視詰めた。
「君、そんな
「いや、しかし………」
「馬鹿!」
大渴するや否や、彼は渾身の力を拳に籠めて、耳朶の邊をいやと云ふ程擲りつけた。擲つて了つたら、自分の體が消えてなくなるかと思ふくらゐ、懸命に擲りつけた。此の間から腹の中でばかり
「たんとお擲りなさい、女はとられるし、男には擲られるし、私も散々ですな。」
「口惜しければ、僕を殺したらいゝだらう、何か刃物を持つて來てやらうか。」
「なに其れには及びませんよ、………」にやにやと笑つて、壞へ手を入れて、「困りましたな、それでは、どうしても改心なさらないんですな。」
「だから殺せと云ふんだ。」
其の瞬間、ぴかりと光つたものが、鈴木の右の手に閃いて、又外套の蔭に隱れた。
「いくらおどかしたつて駄目だぞ、殺すなら早く殺せ。」
佐伯は新派の俳優が
それでも鈴木は、まだにやにや笑ひ續けて、容易に斷行するやうな形勢もない。
「ほんとに男らしくない奴だな。殺せないならグヅグヅして居ないで此處を出ろ。」
いゝ氣になつて胸倉を押へつゝ、裏木戶の方へ引き擦り出さうとした刹那、
「そらそら御覽なさい。此れでも男らしくありませんかな。」
かう云ふ言葉と共に、佐伯は頤の下をピシリと鞭で打たれたやうに感じたが、忽ちたらたら血が流れ出した。
「ふん、とうとう斬つたな。感心だよ、男らしいよ。」
よろめきながら、傷口へ手をあてゝ、こんな負け惜しみを云ふ間もなく、鈴木は彼の體を板塀の傍へ踏み潰す如く倒した。さうして、やつぱりにやりにやり笑つて居るらしかつた。
喉笛を抉られる時、佐伯は最後の息を振り絞つて不思議な聲を發したが、それは負け惜しみではなく、痛苦のあまり悲鳴を擧げたのだつたらう。痩せて居る割合に多量の血液が景氣よく
本テキストは昭和三十三年中央公論社刊「谷崎潤一郎全集 第二巻」を定本にした。